2018年3月12日月曜日

安田義定(やすだよしさだ)

 平家物語に出てくる人のようです。源平合戦事典に詳しく述べられています。甲斐源氏の一人ということです。なぜ甲斐に安田という名があったかということに興味があります。
1.甲斐で条里制の田が開発され、安田の名が残った。奈良時代以前。
2.安田の名を持って(近畿・中部地方から)移住してきた。
  林→小林から、律令制の崩壊に伴うので、奈良時代か平安時代。
3.もちろんその他の可能性もあります。
 古い時代の中でも、甲斐は新興の地のように感じるので、2の可能性が大きいと私は考えます。

以下、
源平合戦事典、福田豊彦・関 幸彦 編、吉川弘文館発行
安田義定の項のメモです。

  平安・鎌倉前期の武将。清和源氏義光流、義光の子の義清が甲斐国に配流され、逸見《へみ》、武田・加賀美《かがみ》、小笠原、安田など甲斐源氏の祖となったという。尊卑分脈によれば、義定はこの義清の子清光の三郎子であるが、吾妻鏡は義清の子とする。長承三年(一一三四)生まれ。治承四年(一一八〇)八月、武田信義らとともに源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げ、波志太《はしだ》山の合戦で平家側を撃破し・・、玉葉によると、源氏の富士川の勝利は主として甲斐源氏の活躍によるもので、吾妻鏡はこののち頼朝が武田信義・安田義定を駿河・遠江の守護に任じたとするが、両国の支配は彼らが実力によって獲得したとみるのが妥当であろう。寿永二年(一一八三)七月に源義仲が入洛すると、義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、八月に従五位下遠江守に任じられた。これによって、実力による義定の遠江国支配は国家から公認されたことになるが、さらに義仲が北陸道の追捕使《ついぶし》に任じられると、義定は東海道の追捕使に任じられている。・・・義定は間もなく義仲と袂をわかち、その滅亡後は平家との一谷の戦に搦手《からめて》軍として参加、文治五年(一一八九)の奥州出兵にも従軍しており、頼朝との関係は次第に御家人的な色彩を強めるようになる。・・・
しかし、建久四年一一月、子息の越後守、義資《よしすけ》が院の女房に艶書(恋文)を送ったことが発覚。翌日に斬首される。その縁座として義定の所領遠江浅羽荘を没収され、翌年八月一九日には謀反計画の発覚を口実に梟首《きょうしゅ》、前滝口榎下重兼以下の供類五人が首を刎ねられた。享年六十一。その鎌倉の屋敷は北条義時に与えられ、遠江の守護職も北条家領となる。一連のこの出来事は頼朝の政策とは無関係のように見えるが、義資の付け文を表沙汰とした人物は頼朝の腹心梶原景時であり、客観的には範頼殺害に次ぐ有力源氏排除のじけんであった。これより先、甲斐源氏の棟梁武田信義も子息忠頼の事件によって頼朝の勘気を蒙ったまま、文治二年に没している。
参考文献「大日本史料四の四、建久五年八月十九日条(福田豊彦)

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