2018年3月8日木曜日

平家物語からのアナロジー

 最近、平家物語の講座を受けました。敦盛最後の段で、生年17の敦盛が熊谷次郎直実に討たれる話です。敦盛と言えば、織田信長が桶狭間の戦で敦盛を舞ってから出陣したことで有名です。人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。このフレーズが平家物語にあると思いましたが、全然出てきません。敦盛は能の演目になっているようで、その脚本のようなものを取り出したのが謡曲のようです。その中にあるのかと思いましたが、実はありませんでした。信長が舞ったのは幸若舞で、能・平曲(平家物語)と並んで中世庶民の耳目を楽しませた芸能とのことです。舞の本(新日本古典文学大系59、岩波書店)を借りてきて見たら、後半にありました。同じ敦盛ですが違いに驚きました。信長公記の桶狭間の戦の前の敦盛の舞の記述は嘘だったのかと疑いましたが、そうではないようです。
 平家が都を追われて、最終的には壇ノ浦で滅びます。平家物語の関係年表を見ると、1180年に源頼政が挙兵、その後に頼朝、木曽義仲が挙兵しますが、平家の壇ノ浦の戦いが1185年になり、5年間もあります。没落まで案外時間がかかっています。1184年正月に義仲敗死、二月には一ノ谷の戦いで平家が敗れています。その後、1年後の二月に屋島の戦い、三月に壇ノ浦の戦いとなり、平氏滅亡となります。屋島から壇ノ浦はすぐですが、一ノ谷から屋島の合戦までの1年間をもう少し詳しく知りたいと思いました。平家物語も「盛者必衰の理を示す」のテーマなので話もそれにあったものにはなってるのですが、奢れる者の何が悪かったのか興味を持ちます。
 屋島の合戦では1185年2月源義経、夜、風雨に乗じ150騎を率い、阿波へ漕ぎ渡る (吾妻鏡)。「勝浦合戦」義経、田口成良の弟桜庭良遠を破る(吾妻鏡)。「屋島合戦」義経、屋島の内裏を襲う。佐藤継信戦死。平宗盛以下、安徳天皇を奉じて西海に逃れる(吾妻鏡)。と源平合戦事典の年表にあります。屋島の合戦では那須与一が平家方の小舟に立てた扇の的を一矢でみごとに射落とした話で有名ですが、義経が屋島の内裏を急襲した感じでは本当か疑いたくなります。注意しないといけないようには思います。
 話変わって、神武天皇の東征の話ですが、平家と逆コースで似たようなものに思われます。平家が日宋貿易で利益を得て、ある程度、貨幣経済が発達した時代でも軍隊の移動は大変であるので、神武天皇も生活を維持しながら侵攻していくわけで、実態はどのようなものであったのか想像がつきません。それらしきものがあったのかも含めてです。
 また平家物語は、琵琶法師によって語られたということですので、もっと古い時代に、稗田阿礼が古事記を語り物のようにして伝えていたのかもしれないと思うと、案外嘘っぱちではなくて、何かしら伝承的なものがあり、文字化され古事記が出来たのかもしれないという気もしてきました。棒読みではなく、歌うような音楽を含めた、講談的(良くわわかってはいませんが)なものであったかもしれません。
少なくても音については、三分損益法が中国であり(紀元前3世紀らしい)、古墳時代とかに日本に伝わってきていて、音曲のような形で古事記があったとして不思議ではありません。単なる妄想の話ですが。

三分損益法

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