2017年12月5日火曜日

懐風藻

 奈良時代、天平勝宝三年、孝謙天皇の時代に作られた漢詩集です。編纂に淡海三船がかかわったというのが有力視されている。とのことで図書館から借りてきました。最初、林古渓 、懐風藻新註、昭和三十三年、明治書院を借りてきましたが、私にとって旧漢字はかなり読みにくく、また違う本を借りてきました。
懐風藻全注釈、辰巳正明著、笠間書院発行(1)です。また
懐風藻、江口孝夫著、講談社学術文庫(2)です。こちらは小型なので持ち運びできます。非常にマニアックな書物のようで、万葉集などと比べて注目されていないようです。           万葉集と同じく、東大寺大仏建立に触れていないようで、これは万葉集と呼応するところがあると、(1)では述べられています。本藻序文に、作者六十四名、詞の数一二〇首と記されていて、読まれた時代は、近江朝から奈良期末で、天皇・皇族以下官吏僧侶とのことです。当時の状況を高級官吏的な視線で記述されているような気がします。懐風藻序は、訳を見てですが、公式見解的な日本書紀の話をコンパクトにうまくまとめているようです。最初に天智天皇の第一子の大友皇子が取り上げられていて、なぜかと思いますが、淡海三船が大友皇子ー葛野王ー池辺王ー淡海三船とつながることを考えればそうかなと思われます。大友皇子には、伝記があります。その中で、
「皇子はある夜夢を見た。天の中心ががらりと抜けて穴があき、朱い衣を着た老人が太陽を捧げ持って、皇子に奉った。するとふとだれかが脇の下の方に現れて、すぐに太陽を横取りして行ってしまった。驚いて目をさまし、怪しさのあまりに内大臣の藤原鎌足公に事細かに、この旨お話になった。」との記述があります。天智天皇の天下を、天武天皇が武力で簒奪したということを言っているように思えます。「天」智天皇から「天」武天皇が壬申の乱で武力で横取りしたと言ってることになります。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_16.html

次に河島皇子が出てきます。天智天皇の第二子です。持統天皇の時代になり、大津皇子の謀反の密告をしたことに対する弁明が述べられている。そして、次に大津皇子について、天武天皇の第一皇子で、新羅の僧に惑わされてしまったように書かれています。次が釈智蔵、僧侶です。唐に留学したときに、同僚からねたまれ狂人のふりをしたらしく、有間皇子を想像させます。
 次が葛野王で、天智天皇・天武天皇の孫で、淡海三船の祖父になります。太政大臣であった高市皇子(天武天皇の皇子、壬申の乱で活躍、長屋王の父)が薨去後に、持統天皇が次の皇太子について相談され、議論紛糾したときに、葛野王が、兄弟ではなく、子孫が相続するのが、古来よりの決まりであるとのべ、高市皇子の兄にあたる弓削皇子が何かを言おうとしたが、葛野王が叱り、決まったということです。皇位継承が確固としたものではないことから、天武系から天智系に変わっていったのかもしれません。懐風藻は漢詩なので、偏りがあるのか、長屋王宅で読まれたものが多くあります。藤原氏も不比等から始まり、藤原房前(総前)、藤原宇合、藤原万里が収められています。ただ、四兄弟でも藤原武智麿はないようです。藤原四兄弟でも温度差があるようです。その中で宇合が一番優遇されているようです。良い漢詩を作っているからかもしれませんが。懐風藻が淡海三船の編纂で、天皇の漢風諡号を考えたとして、漢詩から天武系の長屋王につながる部分があったことは確かであろうと思います。淡海三船や藤原宇合は、天智と天武の二つを融和できるものと認識していたことは宇合の漢詩の中に感じられます。漢詩が現代語訳でしか読めないので、確としたことは言えないのが残念なところです。しかし長屋王の変で、宇合が長屋王邸を六衛府を率いて包囲したことについて、長屋王宅の漢詩を作ったこととギャップがありすぎます。懐風藻が宇合に好意的な気はしますが、これは今後の課題としておきます。

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