2017年12月9日土曜日

現時点の確認1

 このブログも投稿記事が二〇〇ほどになってきました。自分でもおかしなことを言ってるとは思います。しかし、今から見直すのも大変になってきました。私の感覚を確認するために、図書館で
 ここまで変わった 日本史教科書、高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬真一著
   吉川弘文館、二〇一六年一二月一〇日第五刷発行
を、借りてきました。感想を時系列に並べていきます。
原始・古代
 ・時代区分をめぐる攻防
 稲作をめぐる認識の変化について、大陸から伝来した水田耕作は、完成された技術体系を持っていたとのことです。垂柳遺跡の水田遺構の写真がありますが、うねっているので、多分人力によって開発されたように見えます。これが、条里制にどうつながるのかが興味あるところです。
 ・邪馬台国論争のゆくえ
 畿内説と九州説があるとのことで、邪馬台国と古墳時代の連続性を考えなければどちらでも構わなくなりますが、基本は不連続と考えた方が良いので、九州説として考え、問題あれば、畿内説に宗旨替えしても良いように思います。
 ・見直される倭国と半島の関係
 「やまとせいけん」の表記の違いについて書かれています。朝廷という言葉は使われなくなってきているそうです。大和という地名表記が八世紀まで下るとのことで、ヤマト政権が良さそうに思いました。任那《みまな》の表記は消え、「加耶《かや》」、「伽耶《かや》」、「加羅《から》」と記すことが多いそうです。任那日本府が植民地のような支配・経営を行っていたという見方は否定されているそうです。「宋書《そうじょ》」倭国伝に、倭の五王が出てきて、倭王武が雄略天皇と呼ばれる人物にあたるとのことですが、現時点では誰でも良いように思われます。というか偏見を持ってしまうようで良くないです。稲荷山古墳の出土太刀名から、ヤマト王権のことまでは断定できないように思います。私自身まったくわかっていません。現時点ではパスです。
 ・変容する「聖徳太子」
 以前の教科書では、聖徳太子が主体で、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した、推古朝の主役であったのが、現在は、蘇我馬子や推古天皇など三人が、政治権力の中核をなしていたとする見方が強いとのことで、聖徳太子の業績も婉曲的な表現になってるそうです。私自身は、聖徳太子も推古天皇も蘇我馬子もいなかったと考えています。遣隋使も「隋書」の第一回の六〇〇年のものも重要視されるようになってきているそうです。
 ・天皇・日本・藤原京
 天皇は古いか新しいかということで、推古朝説と天武朝説があるそうです。日本書紀の遣隋使の国書の記事に天皇があるというのが、推古朝説の根拠のようです。日本書紀があてにならないので、推古朝説は成立しないと思います。天武天皇からということだということです。古墳時代から律令国家への体制は不連続なものと考えます。
 藤原京について、京城の規模が以前は東西約二キロ、南北約三キロというのが、一九九〇年代以降の発掘調査と研究によって、見直され、京城は約5.3キロ四方の正方形で宮が中央に置かれていたとする見方が有力になってきており、規模が平城京に引けをとらず、宮の位置関係が異なるなど、藤原京の位置づけを問い直す必要が出てきたと言うことです。これに関して、私は前期難波宮の位置づけが問題になると思います。
 ・律令国家の最盛期はいつか
 かっての教科書の内容が最初に示されています。七世紀までの王族や豪族は、屯倉《みやけ》や田荘《たどころ》と呼ばれる私有地を所有していたが、大化改新で公地公民制の方針が示され、大宝元年(七〇一年)大宝律令の制定で完成され、班田収受制が確立された。ところが、口分田不足から、開墾が奨励され、三世一身法で期間限定の所有が認められ、、墾田永年私財法の発布で、永久私有が認められ、公地公民制は崩れ、律令体制の動揺を招いた。このような見方は大幅に修正されている。とのことです。私自身はこの考え方でしたので、驚きの事件です。一九八六年からの長屋王邸宅跡から多数の木簡が出土し、その研究によるとのことです。長屋王家の私有地経営の様子が明らかになり、教科書に取り入れられたようです。父の高市皇子からのものが、奈良時代になっても所有し続けていたということで、公地公民制が実現していたのか、また大宝律令の制定で律令制が完成したとする考えに強い疑問が投げかけられたようです。墾田永年私財法を契機に、所有を認めるのであるが、税を納める輸租田《ゆそでん》とされ、国家の土地支配が強化され、律令国家の支配が深まったという認識らしいです。
 長屋王の変も、律令制を阻害する私有地経営が違反とされて起こったかもしれず、長屋王は特殊な例の可能性があり、教科書の通りかはわからないとは思います。
 ・皇位を揺るがす権力者
 奈良時代後半の政治家として、藤原仲麻呂と道鏡があげられています。仲麻呂は光明皇太后をバックに、政治の実権を掌握していくのであるが、孝謙太上天皇と対立し、恵美押勝の乱で敗死する。この後に、孝謙が重祚《ちょうそ》して称徳天皇となり、宇佐八幡神託事件が起こる。道鏡を天皇にすれば天下は太平になるという宇佐八幡神の託宣が伝えられる。これには道鏡主体説と称徳主体説があり、教科書も一定していないとのことです。奈良時代の皇位継承について、女帝が多く、また上皇の力が強いようでもあり、良くわからないところがあります。今後の問題です。
 だらだらと書いてきましたが、良く考えれば、日本書紀の扱いが問題で、大化改新までの神話部分を無視するか、配慮するかで全然話が違います。教科書では、古墳時代と律令の時代に断絶があることを明示していません。

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