2017年11月15日水曜日

一族を諭《さと》す歌、万葉集

引用が長くて、言いたいことは最後の方の三行ぐらいです。
大伴家持の最後の長歌といわれます。万葉集巻二十・四四六五
この歌を作った事情は左注に
  右、淡海三船《あふみのまひと》の讒言《ざんげん》に縁《よ》りて、出雲守大伴古慈斐宿袮、任を解かる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
とある。淡海三船という者の讒言によって一族の長老、出雲守大伴古慈斐が解任されるという事件があったからだという。一族を諭す歌は短歌ではできない。長歌ならではの役目である。作ったのは天平勝宝八歳(七百五十六)六月十七日とある。この事件は正史である「続日本紀」によれば、その天平勝宝八歳五月十日の条に、
 出雲国守従四位上大伴宿袮古慈斐・内堅《ないじゅ》 淡海真人三船、朝廷を誹謗して、人臣の礼無きに座《つみ》せられて、左右衛士府に禁せらる。
とある。そして三日後に二人そろって許されたという。天皇は孝謙女帝で、この事件の八日前、五月二日に聖武太上天皇が崩御されて、文武百官をはじめ国中が喪に服しているさ中に、この事件があったのである。
以上、
大伴家持、小野寛著、コレクション日本歌人選042、笠間書院より引用。

 この事件に関して」、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にくわしく述べられている。
 この事件の前に大伴家持の理解者であった橘諸兄が左大臣を辞任している(七五六年二月)。この原因が、前年一一月の酒宴で、佐味宮守に、「大臣飲酒の庭にして言辞礼無し、稍《やや》反状あり云々《うんぬん》」と、密告されている。宮守は翌々年七月に従八位上からいっきょに従五位下に昇進しているとのことで、密告の功だとしている。天平勝宝八歳、諸兄辞任の年、五月聖武上皇崩御、遺詔として皇太子に天武天皇の皇孫、道祖《ふなど》王が立てられた。その時に事件が起こったことになる。
 続日本紀では淡海三船・大伴古慈斐共に悪者ですが、大伴家持の認識では、天智天応系の不満分子の淡海三船に引き込まれてしまったということで、大伴一族が滅ぼされないよう、今後の軽挙妄動を慎み、自重せよとのメッセージのようです。
 長々とした文章ですみません。注目すべきは、淡海三船が体制批判的な立場の人間であると思われていたことです。一族を諭す歌はこれを示しているように思われました。
天皇の名前
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推古天皇の名前
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