2017年11月30日木曜日

志賀の大仏《しがのおおぼとけ》

 崇福寺跡に向かう途中にあります。元の山中越え(志賀の山越)で、大津の入り口に位置するこの場所と対で京都の北白川に石仏があるそうです。この石仏は、高さ3.1メートル、頭部は耳も彫り出された厚肉彫りの阿弥陀如来像です。十三世紀頃に作られたと説明板にありました。しばらく道を進むと、切通しのようなところがありました。鎌倉七口といわれる切通しがどんなものかわかりませんが、鎌倉時代の痕跡のように思えてきました。鎌倉の玄関にある長谷の大仏のミニチュア版のように見えないこともありません。承久の乱(一二二一年)のあと、朝廷の監視のために六波羅探題がおかれますが、京都にダイレクトに入るための道として、このころに整備されたのではと妄想します。

石像阿弥陀如来座像

このような場所はどこにでもあるのかもしれませんが。



2017年11月29日水曜日

国宝 六道絵 滋賀・聖衆来迎寺

 国宝がブームのようで、最近良くテレビとかで放送されます。タイトルのは滋賀・聖衆来迎寺のものです。
   京都国立博物館、開館120周年記念 特別展覧会 国宝
   2017年10月 3日 ~ 2017年11月26日
で展示されていました。
 この聖衆来迎寺は、織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちの時に、延暦寺の念仏道場であったのにもかかわらず、除外され、その結果、多くの文化財が残った。その一つが鎌倉期とされる国宝のようです。除外された理由ですが、森蘭丸の父の墓がこの寺にあったためとの説があるそうです。蘭丸の父、森可成《もり よしなり》は、信長の命で、宇佐山に城を作り、現在は宇佐山城跡(志賀城跡)となっています。姉川の戦い(一五七〇年)で、信長が苦戦し、京都に退却した時に、森可成は坂本(現大津市坂本)で戦死、浅井・朝倉軍は宇佐山城に迫ったが、出城《でじろ》(端城《はじょう》)で、武藤五郎右衛門《むとう ごろうえもん》らによって、くいとめられたとのことです。その後、優勢となった信長は、浅井・朝倉軍が逃げ込んだ比叡山延暦寺の焼き討ちを、宇佐山城を拠点として行ったと伝えられる。とのことです。
 引用は、滋賀県の歴史散歩(上)大津・湖南・甲賀、山川出版社。
 国宝として残るには見えない歴史があるんだと、引用の本を見ていて思いました。わかりきったことかもしれませんが、メモ書きです。

追記
上記の本と内容が少し違う本を見つけました。私の読み違いかもしれません。
戦争の日本史13
信長の天下布武への道、谷口克広著、吉川弘文館
この巻末の略年表からの抜粋したものを以下に示します。森可成の部分を追加しています。


2017年11月28日火曜日

崇福寺跡(天智天皇関連)

 大津宮遷都翌年の六六八年(天智天皇七年)に、天智天皇の命により建立したとされる。扶桑略記に、大津宮の乾(西北)とあることから、この寺院から大津宮の位置を特定するために探索されたとのことである。現在、この地に確定している。尾根を削り、伽藍が建てられ、三カ所に分かれている。北側の尾根が弥勒堂跡、中ほどが小金堂、講堂、三重塔の中心部で、塔心礎から発見された舎利容器等は国宝となっている。南尾根には金堂跡とされるところに崇福寺旧址の石碑がある。こちらは、延暦五年(七八六)に桓武天皇が天智天皇の追悼のために建立した梵釈寺跡と推定されている。崇福寺は延暦年間に十大寺に選ばれ栄えたとのことであるが、桓武天皇のバックアップとしか思えず、室町時代には廃寺となったとのことである。桓武天皇が、天智天皇の後継であることを強く意識していたのであろうと思われる(桓武天皇行幸を参照)。崇福寺は尾根が南北に位置していて、おそらく東側の琵琶湖から眺めることができたと思われる。四天王寺が海側から見て伽藍配置が一直線上にあるのを思い出す。琵琶湖の対岸の石山の方に国府が推定されていて、ここからかっての近江朝廷を感じることができる景観を作っていたと思う。このこだわりから天智・天武の対立が強かったことを示しているのかもしれない。

 あまり関係ないですが、崇福寺跡の紅葉。


桓武天皇行幸
以下、滋賀県百科事典、一八七頁の引用である。
 奈良時代の天皇が天武天皇系であったのにたいし、光仁天皇・桓武天皇など奈良末・平安時代の天皇は天智天皇系であり、このことが桓武朝において、近江国への特別な対応が見られることになる。梵釈寺の建立や古津から大津への改称などはその例であるが、桓武天皇の近江行幸もその現われとみることができる。八〇一年(延暦二〇)、八〇三年(延暦二二)、八〇四年(延暦二三)と晩年には連続して近江への行幸を行っているが、とくに八〇三年には、三月・四月・閏一〇月と三度も行幸している。三月・四月は可楽崎(唐崎)であり、閏一〇月は蒲生野である。蒲生野の行宮では「山々も麗しく野も平くして、心も穏やかである」と詔している。おそらく天智天皇の蒲生行幸とのかかわりがあってのことであろう。

2017年11月26日日曜日

名字と方言の分布の違いの説明図

 今までの記事を私のイメージで模式図にまとめました。
 古墳時代の長方形は、日本を表していて、何らかの状態があったと思いますが、白紙の状態です。次に律令制が近畿地方を中心に始まったのが二段目です。ブルーがその地域です。西日本に発生したと考えています。次が律令制が失敗し、農民の逃亡などで、拡散する状態を示しています。この時に日本語の基本的な西日本の方言の分布になったことを示しています。


2017年11月23日木曜日

林・小林仮説

 小林がどうして生まれたかの仮説です。近くに小さい林があって、小林の名字を取り入れたというものではありません。大まかな流れです。おかしなところも多々あると思います。
一,律令制度開始により、林という名字が使われるようになった。
    考えているのは越前。越中など、富山県・石川県・福井県あたり。
  参考 名字:林と小林

二,すぐに口分田の不足とか、律令制の問題が起こった。

三,対策として三世一身法(七二三)、墾田永年私財法(七四三)が出される。
  これは、開墾した者にはその世代から三世代、そして永久に所有を認めるもので、開発主体は上級貴族・大寺院とのことです。律令制下、過剰な負担に耐えかねて、浮浪や逃亡が多かったようです。

四,越前、越中、加賀の地域で、寺社や上流貴族の新田開発計画に乗ったか乗せられたかして、林グループが信濃へ集団移住、さらに甲斐国にも進出。国司の制度とか甲斐国にも遅れて出来た。

五,この地域で、心機一転、名字を林の子孫の意味の小林として土着した。
 西日本から多数の人間が山梨県に移ったことになり、西日本風の方言を当然のごとく使った。それが、現在まで、名字や言葉に残っているのが甲斐国、山梨県でしょう。
 これが、荘園になっていくのですが、鎌倉時代以降に武士の時代になり、土地の所有者が変わってしまい、わからなくなったとは思われます。しかし日本史総覧#の主要荘園一覧に、甲斐国では京都の寺社とか出てきているように思えます。東大寺とか出てきておれば確実だと思いますが、残念なところです。
 正倉院展で、何かしら毎年展示されているようです。今年は、国司と東大寺の間で領地の争いがあった例##が展示されてました。土地が深刻な問題であったと想像されます。おそらく逃亡したとされる農民なども計画的に移住して開墾していった地域と、渡来人の移住した地域では、違いが出てくるのだと思われます。甲斐国では逃亡や浮浪の農民が、多数、移住していって、影響を受けるのではなく与えたと思われます。日本史通覧###には、正倉院文書の例として山城国で、四十一人中二十一人が近江や筑紫へ浮浪逃亡しているとあります。この時代、民族の大移動に近いことであったのかもしれません。西日本でも未開発の所に広がっていったのかもしれません。

#日本史総覧
 日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行
##第六九回正倉院展図録
###図説、日本史通覧六九頁、帝国書院

2017年11月22日水曜日

山梨県の名字とハ行転呼音現象

 山梨県の名字を調べようと思い、図書館で
   県別名字ランキング事典、森岡浩著、東京堂出版、2009年10月印刷発行
を、借りてきました。山梨県のところを見ると、渡辺が一位で、二位が小林です。渡辺は富士吉田市に特に多いということです。富士吉田市は山梨県の東南に位置し、富士山の近くで、農耕に名は向かない土地のようで、渡辺はもう少し後の時代であろうと思われます。小林は全県に分布するようです。隣の長野県を見ると小林がトップで、二位の田中に二倍以上の差があるそうです。長野県から小林が伝播したことを想像させます。
 また山梨県に戻りますが、他県ではあまり多くない名字が多く見られるのが特徴とのことです。読み方についてのところ、驚きました。第六〇位の藤原です。これを普通はフジワラと読みますが、山梨の電話帳では八六パーセントがフジハラと登録されているそうです。藤原だけでなく、梶原の七一パーセント、萩原の七九パーセントがハラの方とのことです。「今日は」は発音ではコンニチワです。このハ行音がワ行音に変わるのが、ハ行転呼音現象というそうで、西暦一〇〇〇年頃からとのことです。(ここは、図説 日本語の歴史、今野真二著、河出書房新社、六五頁より)。つまり平安時代以前の状態がこの地に残っていると言うことです。甲斐の国司の初見が天平三年(七三一)と遅いこととの関係があると思われます。律令制が始まってから、小林グループが山梨県へやってきたことを暗示します。
 ついでに、ランキング事典で、林の多い地域をメモっておきます。各県で一〇位以内です。富山県二位、石川県六位、岐阜県四位、滋賀県九位、京都府九位、和歌山県六位、山口県七位、徳島県七位、です。メジャーな名字なので、かなり広がっています。期待の福井県は一三位でした。

2017年11月21日火曜日

上野・下野と甲斐の時代順

 甲斐の方が先で、その後に上野・下野だと言ってましたが、違うかもしれません。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2017/11/blog-post_18.html

日本史総覧の国司の所見順を見ると、上野・下野が和銅元年(七〇三)に対して、甲斐は天平三年(七三一)で遅いです。律令制としての始まりは三〇年ほど違います。近江国でも近江朝廷があったので、国司の初出が早いように思いましたが、和銅元年です。ばらつ愛きがあるのかもしれません。信濃も和銅元年ですので、信濃→上野・下野のコースがあり、甲斐からのコースが関係が薄いように思われて来ました。
 名字の各県別のデータを思い出して見ました。各県と周囲の県との名字で関係がどの程度あるかを見てます。山梨県は少し変わっていました。群馬県も見ましたが、どちらも奈良県とは薄い関係のようなので、奈良時代にこだわるものではないと思われます。
 山梨県が、福井県→岐阜県→長野県や三重県→静岡県と結びついていることがわかり、西の方との関係が強そうなことは図で出ているようです。岡山県も関係ありそうです。この辺は誤差かもしれません。謎は残ったままです。



 群馬県の図からは、茨城県の方とのつながりもあり、西は長野県の方ともつながりがあるようですが、山梨県・静岡県の方はそれほどでもないことはわかります。
 所見年代は国司一覧より。このような本があることを知りませんでした。
日本史総覧Ⅱ 古代二・中世 監修 児玉、小西、竹内、新人物往来社 発行

2017年11月19日日曜日

動物名が含まれた人名

NHK,日本人のお名前に感化されてるかもしれません。
上野三碑で、「多胡碑」に人名と思われる「羊」がありましたが、なんだろうということです。
 今年の第六九回正倉院展で動物名のついた人物が多くある戸籍が展示されていました。図録で見るとNo.40続々修正倉院古文書 第三十五帙第五巻
下総国葛飾郡大島郷戸籍《しもうさのくにかつしかぐんおおしまごうこせき》ほか
 これには、刀良《とら》、刀良売《とらめ》、乎刀良《おとら》、竜麻呂《たつまろ》、馬手《うまて》、比都自《ひつじ》、佐留《さる》、鳥、犬売、猪、子猪などが見え、図版は養老五年(七四五年)、今の東京都葛飾区に比定されています。と書かれています。
 サルということで、昔に読んだ梅原猛著『水底の歌-柿本人麻呂論』を思い出しました。名誉剥奪ということで、名前を人からサルに変えさせられたということでした。ウィキペディアで、柿本人麻呂を見ると、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。とのことでした。
 藤原宇合《うまかい》は、馬を飼うということで人間の立場の名前で、しかも遣唐使の時に変えたので問題はないと思います。高橋虫麻呂の方は知らない人だったので、図書館で
「旅に棲む、高橋虫麻呂論、中西進著、角川書店」を借りてきました。虫麻呂と宇合は万葉集の中で密接な関係があるようでした。本文をほとんど読んでませんが、終わりにの後ろに、高橋虫麻呂について書いてあります。虫麻呂については史書には登場せず、良くわからないそうです。虫麻呂は変な名前だと言うことで調べられていて、虫麻呂は万葉集で五人登場して、安倍虫麻呂、高橋虫麻呂以外は東国出身者は防人の名前で三名だそうです。東国に多い名前かと思いましたが、古代の文献調査では、出身地のわかっている虫麻呂三六人中、二十三人が畿内で、東国関係者は九名とのことです。虫のつく名前が東国に限らないということになります。途中理解できていませんが、最終的に高橋の姓から虫麻呂は、東国出身と言うことのようです。蔑称かどうかはわかりませんでした。
 私の手がかりとなるのは、大化の改新での蘇我氏があります。日本書紀では蘇我氏は悪者ですので、フィクションと考えて、自由に名前をつけられたとすれば、馬子と入鹿で、動物の名前です。また蝦夷も人間ですが蛮族的なイメージで、全体として蔑称としてつけられたと考えられます。動物の名などは、トップエリートには使われなかったように思われ、当時の人も動物名に高貴なイメージを持たなかったと思います。ウィキペディアに逆らうようですが、蔑称のような気がします。


 上野三碑については、ユーチューブにありました。
良くわかっていなかったのですが、ありがたいことです。
上野三碑
https://youtu.be/S2bLs2RDW5U
上野三碑「多胡碑」
https://youtu.be/fYoLn0poCtg

2017年11月18日土曜日

甲府盆地の方言「ん」

上野三碑がある理由を考えていて
私は、律令制が西日本から始まったと考えています。しかし群馬県高崎市にこの時代の碑文が残されていることのつじつま合わせを考えないといけなくなりました。日本の方言は、大雑把には東西対立ということが言われています。動詞の否定形に現れていて、、言わないと言わん(いわへん)、書かないと書かん(書けへん)という使い方に差があります。
 私はこれは、西日本に律令制が取り入れられた時に起こったと考えています。律令制は短期間に崩壊したので、この分布が現在まで残ったということです。これは、名字が律令制により出来て、律令制の崩壊と共に西日本特有の名字として残っていることと対応しているということです。
 方言の本を図書館から借りてきて、パラパラとみて、上野三碑と甲府盆地の「ん」が結びつきそうな気がしてきました。
ことばの地理学ーー方言はなぜそこにあるのか?
 大西拓一郎著、株式会社 大修館書店
この本の第一章 川をのぼった「言わん」の「ん」、この中でことばの東西対立について述べられています。ここでの問題点として、甲府盆地に否定の「ん」が孤立してあることが邪魔になるとのことです。東西対立がうまく説明出来ないと言うことです。
 考え方としては、もともと東日本の分布があるところへ、後から西日本の「ん」がもたらされたということであるとして、富士川からの水運で、内陸部ではできない塩などの生活必需品が西日本の人を通じて言葉も伝わったということである。この時期は富士川水運の開設時期であれば、四〇〇年前になるとのことである。とあります。
 私はただの思い込みですが、条里制の田んぼの開発には盆地の地形が有利に働くように思われ(奈良に都が出来た遠因に盆地であって、排水処理に有利な地域であり、農地開発から多数の人を養うまでに農業生産が出来たのではと思っています)、ある程度甲府盆地に早い時期に西日本からすぐれた土木技術を持った人が入ったと思われます。しかもある程度の人数でないと、その土地の人の言葉の影響を受けてしまうので、集団移住と想像されます。富士川を通って、甲府盆地に定着した可能性はあります。
 これは山梨県の話ですが、この付近に小林の名字が多く、また小林は「沢」のつく名字と相関があります。林は近畿地方に多く、林が移住して小林になったのではないかと考えています。また沢がなぜ多いのかということも、戸籍が整えられ、同時期にこの地に「沢」のつく名字が生まれたのではと妄想されます。名字については長野県の方にも分布が広がり、断定出来にくいところがありますので違うかもしれません。現時点での思いつきです。その後、この律令制の成果を見て、上野・下野の方にも拡散し、上野三碑が出来たのではということです。
 少し時代が下がりますが、称徳天皇の崩御により、弓削道鏡が下野国に左遷されます。この地域が七七〇年頃の版図の境の地域であったと当時の政権に認識されていたと思われます。
 パズルのピースがはまってきた感じがします。この妄想から逃れられません。
 あと、ついでですが、甲斐国の名です。ウィキペディアに説明がありました。そうだろうと思います。
 近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]。
^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12

山梨県
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
林と小林
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5.html


2017年11月17日金曜日

奈良時代

 奈良時代とか平安時代とか今まで意識して来なかったのですが、奈良時代というのは大変な時代ではなかったかという気がしてきました。七一〇年から七九四年まで短期間です。律令制がうまくいかない中での、彷徨。問題続発の中で解決のために平安京遷都が行われたと思います。その前の長岡京に遷都するのも主導者の藤原種継が暗殺されています。遷都しなければ、大和の政権は崩壊していたかもしれません。このような混乱した中にあって、天平文化が花開いたといわれるのがすごくギャップがあります。正倉院展で以前展示された聖武天皇の仕込杖など印象に残っています。クーデター的なことを常に意識していたかのような遺品に驚いたことを思い出します。文化的にすぐれていたものが残っているということと、政治的には不安定であること、これがどうつながるのかということが、今後考えていかないといけないことであると思います。
 万葉集にも大仏開眼の話はないように思われます。無視することで、大仏反対の無言の抵抗をしているような気もします。山水画で雪を表すのに墨で周りを示して余白に雪を感じさせるように、記述がないと言うことも意味があるかもしれないです。
 家持略年譜を見ると、大仏開眼供養の天平勝宝四年(七五二年)、二月に大伴御行の歌が出てきます。四月開眼供養がありましたが、十一月の橘諸兄宅の宴歌まで作歌がないそうです。略年譜の一般事項の欄に開眼供養の終了後に天皇(孝謙天皇のこと)は藤原仲麻呂邸に還御する。とあります。何かあったように勘ぐります。
 オリンピックのような祭典が行われたとして、周辺で大規模な反対デモがあったことが記録から抹殺され、後の人が平和な時代だったと錯覚するような可能性があるのではということです。
 このあたり思いつきです。図書館に返却しないといけないので、また読むことあるかもしれません。メモっておきます。
家持略年譜は、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著
全体に読まないといけないと思った本は
万葉集をどう読むか
 ーー歌の「発見」と漢字世界  神野志隆光著、東京大学出版会

昔の記事の引用です。
東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html

2017年11月16日木曜日

天智天皇と天武天皇

 淡海三船が出てきたので、また天皇の名前を考えました。以前に「元」の字の天皇を考えましたが、今回、この二人になぜ、天がつくのだろうということです。天照大神も最初に天がつきます。奈良時代は、天武系から天智系へ、変わりつつある時代で、皇位継承で政変が多発しています。淡海三船はこの対立が無くなることを望んでいたのではないかという気がしてきました。天皇のスタートが実質的に、この二人にあるとして、両者に天の字を用い、次の持統天皇に合体するようになってほしいと考えたのかもしれません。当時においては、天武系が嫌われていて、多数派の支持を得た藤原氏が、手段を選ばぬ方法をとって天武系の追い落としをしても認められたのではないかと思われます。前から天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと思っていて、それが何かしらに影響しないのでどうでも良いという考えでしたが、それではだめなのかもしれないと思います。唐向けに書かれた日本書紀では神武天皇から始まりますが、天智天皇と天武天皇が兄弟でないとすると、男子王の継続を重視する男尊女卑的な中国では認めてもらえない可能性があります。天武天皇が新王朝の祖となり、神武天皇以来の歴史を作成したのが無意味になることを恐れ、そのために、不自然ですが、兄弟としたということではないでしょうか。淡海三船は天智派と天武派の融和を考え、大伴氏に近づき、天智派の反発を受ける結果になって、朝廷誹謗事件とされたのではという憶測です。単なる思いつきです。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html

系図については、東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html


2017年11月15日水曜日

一族を諭《さと》す歌、万葉集

引用が長くて、言いたいことは最後の方の三行ぐらいです。
大伴家持の最後の長歌といわれます。万葉集巻二十・四四六五
この歌を作った事情は左注に
  右、淡海三船《あふみのまひと》の讒言《ざんげん》に縁《よ》りて、出雲守大伴古慈斐宿袮、任を解かる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
とある。淡海三船という者の讒言によって一族の長老、出雲守大伴古慈斐が解任されるという事件があったからだという。一族を諭す歌は短歌ではできない。長歌ならではの役目である。作ったのは天平勝宝八歳(七百五十六)六月十七日とある。この事件は正史である「続日本紀」によれば、その天平勝宝八歳五月十日の条に、
 出雲国守従四位上大伴宿袮古慈斐・内堅《ないじゅ》 淡海真人三船、朝廷を誹謗して、人臣の礼無きに座《つみ》せられて、左右衛士府に禁せらる。
とある。そして三日後に二人そろって許されたという。天皇は孝謙女帝で、この事件の八日前、五月二日に聖武太上天皇が崩御されて、文武百官をはじめ国中が喪に服しているさ中に、この事件があったのである。
以上、
大伴家持、小野寛著、コレクション日本歌人選042、笠間書院より引用。

 この事件に関して」、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にくわしく述べられている。
 この事件の前に大伴家持の理解者であった橘諸兄が左大臣を辞任している(七五六年二月)。この原因が、前年一一月の酒宴で、佐味宮守に、「大臣飲酒の庭にして言辞礼無し、稍《やや》反状あり云々《うんぬん》」と、密告されている。宮守は翌々年七月に従八位上からいっきょに従五位下に昇進しているとのことで、密告の功だとしている。天平勝宝八歳、諸兄辞任の年、五月聖武上皇崩御、遺詔として皇太子に天武天皇の皇孫、道祖《ふなど》王が立てられた。その時に事件が起こったことになる。
 続日本紀では淡海三船・大伴古慈斐共に悪者ですが、大伴家持の認識では、天智天応系の不満分子の淡海三船に引き込まれてしまったということで、大伴一族が滅ぼされないよう、今後の軽挙妄動を慎み、自重せよとのメッセージのようです。
 長々とした文章ですみません。注目すべきは、淡海三船が体制批判的な立場の人間であると思われていたことです。一族を諭す歌はこれを示しているように思われました。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html
推古天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_15.html

2017年11月14日火曜日

山名村碑文(山ノ上碑文)

万葉集づいています。図書館から
万葉集をどう読むかー「歌の発見」と漢字世界、高野志隆光著、東京大学出版会
を借りてきました。万葉集をテキストとして読むということですが、良くわかっていません。最後まで読めるかわかりませんが、最初の所に山名村碑文が取り上げられています。辛巳歳に長利の僧が母の黒売刀自のために文を記し定めたというもので、そばにある円墳の墓誌と考えられている。 とのことで、場所は群馬県高崎市で、辛巳歳が六百八十一年と考えられています。この年は天武天皇十年となるそうです。私の東国のイメージと異なるのでショックでした。辛巳《かのとみ、しんし》は、ウィキペディアで見れば、六百二十一年、六百八十一年、七百四十一年、八百一年付近で、私の願望としては七百四十一年になってほしいと思いますが、事実を受け入れないといけないようです。
 近畿地方で、律令制が始まった時期にすでに東国に文字の文化や僧や寺ということで仏教が広まっていく時代であったということです。
 この碑文は、上野三碑《こうずけさんぴ》の一つで、他の二つはこれよりも時代が後のようです。多胡碑は和銅四年(七百十一年)のもので、多胡郡を建郡したときのもののようで、律令制のグループがこの地に入ったということだろうと思います。もう一つの金井沢碑は、神亀三年(七百二十六年)に仏教に入信した内容らしいので、律令制が行き詰まってきて、その解決策の仏教による鎮護国家思想と対応していると思えます。律令制が全国的に広がるのに、時間がかかるのであるものの、瞬時に伝わった地域があったということだろうと解釈しておきます。変化が急なので、緻密に年代を考えないといけないように思われます。
https://kotobank.jp/word/上野三碑-62405

追記(H39.11.16)
高崎市の文化財ページより
山上碑及び古墳
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600132/
金井沢碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600231/
多胡碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600286/

2017年11月12日日曜日

大伴家持経歴

大伴家持の万葉集の終わりごろの時代が不明だったので、
王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にある年表を見ました。
 ・天平勝宝七年(七百五十五年)、兵部少輔として防人検閲、歌を記録
 ・天平勝宝八年(七百五十六年)大伴古慈斐《おおとものこしび》の事件で一族を諭す歌
 ・天平宝字元年(七百五十七年)橘奈良麻呂の乱が起こり、関連したとして大伴氏一族は処罰されます。家持は無関係とのことでしたが、翌年、因幡守に左遷されます。
 ・天平宝字三年(七百五十九年)正月に万葉集最後の歌を詠むことになります。
 ・天平宝字六年(七百六十二年)には、信部大輔に任じられ、帰京
 ・天平宝字八年(七百六十四年)正月に政争で、薩摩守へ左遷される
 ・宝亀元年(七百七十年)民部少輔となり帰京、光仁天皇の時代になる
 ・天応元年(七百八十一年)は、従三位になる。母の喪のため一時解任
 ・天応二年(七百八十二年)正月、氷上川継の乱への関与を疑われ、解官されますが、四月には罪を赦され、復任 
 ・翌延暦二年には中納言に昇進
 ・延暦四年(七百八十五年)八月薨去。
 ・同年九月、藤原種継暗殺事件が起こり、家持が首謀者とされ、官籍から除名
 ・延暦二十五年(八百六年)勅により本位に復す。このころから万葉集も世に出たか、とあります。
浮き沈みの大きい人生で、後半生は万葉集どころではなかったかもしれません。この時代女性の天皇が多く、律令制度もうまく働かず、政争も頻発していたように思えます。「大伴」の意味は、大家《おおやけ》(皇室)に直属するという意味が含まれているらしくて、格別に有力な伴造《とものみやつこ》氏族とのことである(最初に示した本より)とのことで、神話の時代はわかりませんが、天武天皇の時代には壬申の乱で大伴氏が活躍した名門です。一方、藤原氏は、日本書紀の大化の改新で、天智天皇を助けた中臣鎌足からの名門です。この時代、どういうわけか、天武系の天皇から天智系の天皇に変わっていくのに対応して、大伴氏などが排除されていくように思えます。


以前に書いていたもの、今回思い出しました。同じようなことを何度も言ってます。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html

万葉集、防人歌一首

東歌《あずまうた》・防人歌《さきもりうた》 近藤信義著、コレクション日本歌人選022、笠間書院
という本を見ました。この中に、東歌三十六首、防人歌十四首、解説などがあります。すべての防人歌の中で独自性が際立っているとしている歌を引用します。出典:万葉集・防人歌・四三八二

「ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がするときに防人に差す」

 「ふたほがみ」や「あたゆまひ」が良くわからないそうですが、「ゆまひ」が病のようで、訳として「ふたほがみは悪い人だ。私が不都合な状態にあって苦しんでいるのに、こともあろうに防人に指名するとは・・・・・・」とのことです。
 このような不満の歌はいくらでもあるかもしれませんが、大伴家持が握りつぶせば、世に現れることはありません。うっかりと入ったものではなく、家持の意思があったと思います。
この歌は、先の本には、巻二〇の天平勝宝七歳(七百五十五年)二月、東国十ヶ国から防人が徴集され、難波に集結したときの歌の一つです。家持は、兵部少輔の位にあり、検校《けんぎょう》(監査役)として関わり、防人は難波到着時に進歌(歌をたてまつること)を求められていたので、家持はこれを受け取ったということです。家持は、進歌の日付、部領使(引率責任者、国司相当の役職)の国名、官名、氏名、進歌数などをきちんと記録しているそうです。巻十四の防人の歌には名前が無いことから、家持ちは武人として防人を遇したあらわれであろうと書かれています。私には、家持が、防人と同じ環境(防人が侵略していった東国の元支配層の人のイメージ)にあるとの意識を持っていて、丁重な対応をしたように思われます。
 作者は下野国那須郡上丁大伴広成とのことです。大伴氏ということで、家持とは関係ある人かもしれません。また、家持が防人の歌に仮託して入れた可能性があるかもとも思います。体制を批判する歌がたくさんあれば問題ですが、一つだけ忍ばせているので、万葉集の歌を抜粋して選ぶときには、省かれてしまいそうです。ハンドブック的な本を見たりしていて、今回、近藤氏の本を見て、はじめて知りました。この体制批判的な問題発言の歌ですが、歌としては単に文句を言ってるだけなので、拙劣歌のように私には思われます。あえて拙劣歌を一首入れて、防人に文句のある歌がほかにもいっぱいあるよという暗示かもしれません。物言えば唇寒しの時代であったろうとは思います。このあと、天平宝字元年(七百五十七年)には東国からの防人は中止されたそうです。

2017年11月7日火曜日

戸籍、正倉院展(H29)の展示を見て

 第六十九回正倉院展図録、No.40の下総国《しもうさのくに》葛飾郡《かつしかぐん》大島郷《おおしまごう》戸籍です。実物は良く見てなかったので、図録を見ています。この古文書は官営の写経所で作られた事務文書や帳簿の裏で、元は政府機関で使用済みの公文書の紙背を転用したもので す。従って、古い時代の養老五年(七百二十一年)のものとされています。
 現在の戸籍と考えると全くの別物です。現在ある名字が出てきません。はじめて聞いたような穴王部《あなほべ》の姓がほとんどのようです。動物の名前のついた人物が多いのが特徴とのことです。現存地名との類似から、東京都葛飾区柴又に否定されているとのことで、古い時代の庚午年籍とかとは異なってきていると考えるしかありません。
 思い出して、前年、第六十八回の図録を持ち出して見ました。No.57に、大宝二年(七百二年)に作成された御野国《みののくに》加毛郡《かもぐん》半布里《はにゅうり》戸籍がありました。現在の岐阜県加茂郡富加町羽生とその周辺に否定されるそうです。フォーマットが違うようですが、こちらの方が戸籍の雰囲気があります。戸主だけでなく戸口とかもありました。読解力の無さで所々しかわかりません。奴や婢の文字もありました。奴婢《ぬひ》(賤民)は男子が奴、女子が婢というそうです。これは、侵略していった地域で、元からいたその地域の人を農奴として取り込んだのではと思えてきます。
 今に残っている名字と、この時代の戸籍とは全然結びつかず、大問題として残っています。サンプル数が少ないということで、これから考えていこうと思います。

2017年11月4日土曜日

安田組、組紐

 安田組は「あんだぐみ」と読みます。第六十九回正倉院展図録の最後の方の用語解説にありました。一間組《いっけんぐみ》を見よ、とのことでそちらを引用します。
「一間組・・組紐の組み方の一種。一条の進行経路が、他の条と交差するに当たり、他の一条の上に、また他の一条の下になりながら平面を形成してゆく。新羅組《しらぎぐみ》ともいう。なお正倉院の一間組は、組織を構成している各一条が、右撚《みぎよ》りの糸と左撚りの糸から成り立っており、一条があたかも一本の組紐のごとき様相を呈する点に特色がある。」
 これを見て、図録本文のどこにあるのだろうと最初から見ていきました。するとNo.51の雑帯《ざったい》(組みものの帯)にありました。丸い文様だったらどうしようと不安でしたが、斜め格子でした。手法の詳細はわかりませんが、とにかく格子であったので、万歳の気分です。安田組=格子模様ということです。 今までは、安田の「安」が、唐の都、長安の「安」を表し、その都が条坊制なので、それを取り入れた田んぼの安田が条里制の田を表すと、私自身は納得していたのですが、他の人にはわかってもらってない感じでした。安田組から安田=条里制の田ということが、確定したと思います。また、安田組という言葉があることから、奈良時代には多くの人に「安田」ということが認識されていて、格子状の用語として使用されていたということです。少し前の日本書紀の編纂された時代にも「安田」という言葉が一般であって、当時の人には条里制と理解されていたと思います。
 最後に安田組の文様を示します。

2017年11月3日金曜日

正倉院展

 今年も正倉院展に行ってきました。人出が多く、今回は少し遠慮がちに見学したので、細かく見れないところなどもありました。まあ仕方がないところもあります。正倉院展の図録を買ってきて、思い出しつつ書いています。
 表紙は、緑瑠璃十二曲長杯(ミドリルリノジュウニキョクチョウハイ)です。これは長横の側面に兎の姿を刻んでいるとの事でしたが、私には龍のように見えてしまい、うさぎとは思えませんでした。
 家に帰って図録を見れば、耳などがわかり、兎に見えてきました。その時は全然見えてなかったです。偏見を持つ体質かもしれません。
さて、今回の注目は、東大寺開田地図(越前国足羽郡糞置村田図) です。。No.38展示。

 今の福井県に、東大寺の開発した所領の図で、マス目は条里制を示しています。二枚目は一枚目の拡大図になっています。マスには番号が振られ、寺の表記が東大寺の所領で、百姓らしき表示が寺以外であろうと思われます。これは天平神護二年(七百六十八年)のもので、ほぼ同じものが天平宝字三年(七百五十九年)にあり、改めて七年後に本図が作成されたのは、国司等から不当な扱いをされたため、改めて寺領を確認するためのもので、左に越前国司と検田使(東大寺僧と造東大寺司官人で構成)の名があるとのことです。八世紀半ばで国司と寺とで領地争いがあったとのことです。

 先の図に対応したのが、東南院古文書第三櫃第十八巻(越前国司解)で、No.39に展示されていました。目録の解説によれば、越前国司が、同国の東大寺領を検田使と共に調査し、天平神護二年(七百六十六年)に、その結果をまとめたものである。天平勝宝元年(七百四十九年)東大寺領となったものが、その後、国司が勝手に口分田として住民に班給したり、郡司などの寺の使いに対する暴力行為、灌漑施設の破壊などがあり、寺側が訴え、太政官が越前国司に命じて、正しい形に復することになった。
とのことです。
 口分田(くぶんでん)とは、律令制において、六歳以上の男女へ支給された農地で、死後に返却するもので、税をそこから徴収することになります。墾田の文字もありました。墾田とは自分で新たに開発した土地のことで、墾田永年私財法が天平十五年(七百四十三年)に出されて、田地の開発が行われたようです。貴族・大寺院の私領化につながったとされますが、この頃には、口分田の不足などが墾田に紛れ込むなどの混乱があったように思われます。律令制が成立しなくなってゆく状況を示しているように感じます。このことにより、律令制の根幹となる戸籍が実態に合わなくなってきて、最終的にはなくなってしまったと考えられます。その結果、戸籍が成立した時代、律令制の時代が百年ほどでなくなってしまい、その大和の政権の領域が西日本に分布する名字分布として残ったということになりそうです。東日本などに広がる前にということです。
参考
第六十九回 正倉院展図録、八十四頁ー八十七頁
奈良国立博物館、展示案内、第六十九回正倉院展

2017年11月2日木曜日

竜山石

 兵庫県立考古博物館図録、「播磨国風土記」-神・人・山・海-
この中に、竜山石のことが載っています。
以下、抜き書きです。
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 近畿地方を中心とする古墳時代前期の大型古墳に使われた棺材といえば
長大なコウヤマキの丸太を刳り貫いた割竹形木棺最も普遍的なものでした。
一方、讃岐地方では前期後葉になると、さぬきに産する凝灰岩の一種である火山石や高松市の鷲の山石という安山岩を刳り貫いた石棺が開拓されます。鷲の山石製の石棺は河内の大型古墳でも採用が確認されており、大王墓の棺にも用いられた可能性があります。
 ところが中期に長持形石棺が大王墓の石棺として採用されると鷲の山石ではなく高砂市周辺で産する竜山石が使われ、後期の横穴式石室に納められる家形石棺では、竜山石製石棺は播磨一円のみならず、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がるのです。
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図録の168、竜山石製石棺と鷲の山石製石棺の図です。

 高砂市にある生石神社の巨大なご神体、石の宝殿についても、図録では670年頃の説が有力視されているとあります。
 石棺の分布図を見て、西日本に名字分布が偏っているのと重なってきます。これが戸籍ができた時代と重なってきて、古墳時代と律令制の開始の時代がつながってきたように思われます。