2015年1月31日土曜日

邪馬台国の場所

 近畿地方説、九州説などがあるようです。意識していませんでしたが、安田仮説からどうなるか考えてみました。
1.漢委奴國王の金印が福岡県で見つかった。後漢書により建武中元2年(57年)とされる。
  1世紀に九州に存在した。
2.「魏志倭人伝」により2~3世紀に日本列島に邪馬台国が存在したとされる。
3.7世紀には畿内で統一された。ただし安田仮説では支配地域は近畿以西である。
4.12世紀になり鎌倉幕府で関東地方まで領域が広がったこと。
という4項目です。

 安田仮説では、首都がおおよそ西から東へ移っていると考えています。
 ここで邪馬台国が近畿地方にあるとすれば、7世紀にはもう少し東に拡大しているはずで、七世紀の支配領域から考えにくいです。移動する時間を考えれば、九州に存在する方が常識的です。早く東進したとして吉備にも行かないぐらいではないかと思えます。そして奈良時代、平安時代から鎌倉時代まで400年くらい西から東への移動に時間がかかっています。

 3.ですが、百済滅亡で来た渡来人により、日本語の文字化が進み、その結果としての名字が影響下のある地域、西日本で共通化したこと。その後、中部地方・関東地方へ軍事的な進出とともに文化的な政策として万葉仮名などの文字の強制があったのでは。それが、万葉集の東歌などでわかるように、大伴氏が軍事・文化の両方で役割を果たしたのではとの想像です。

 暗黙の了解的な話ですが、九州→近畿→関東と西から東へ移動していくのが日本の歴史だと考えているので近畿地方説はとりにくいです。

参考にブログ最初の頃の記事にリンクしておきます。この中の日本地図が安田仮説の原点です。

三関(2)

2015年1月25日日曜日

伊勢神宮3

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生
新谷 尚紀 著
講談社

上記の本を図書館から借りてきて読みました。というか最初の方だけです。
天照大神とモデルが持統天皇と考えられ、理由を三つあげられています。
1.諡号が日本書紀で「高天原広野姫天皇」となり、高天の原神話が形成された。
2.天照大神と皇孫瓊瓊杵尊(ニニギ)が持統天皇と文武天皇の関係に投影されている。
3.拍手の作法が持統天天皇以来の即位儀式と伊勢神宮の神職の作法に通じている。(理解できていません)
 知りませんでしたが、天照大神=持統天皇というのは一般的な認識のようです。
さてこの本で、天照大神の伊勢鎮座伝承ということで、近江国から美濃をへて伊勢へのコースが壬申の乱が反映されていると書かれています(p.64)。これも私は当時の国境を表したものだと思いました。日本書紀により作られた伝承と考えられます。

2015年1月19日月曜日

住吉大社

 ご祭神は底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと) 、神功皇后 (じんぐうこうごう) です。境内の奥(東側)から、順に第一・第二・第三宮が並び、第三宮の南に第四宮ということになっています。
 これらの建物は住吉造ですが、第一から第三は千木の先端が縦に切っているのに対し、第四宮は水平に切っています。写真は見にくいですが第三宮と第四宮を見たところです。ウィキペディアでは男神と女神の違いといっていますが、本当だろうかと思います。伊勢神宮の内宮と外宮のことを考えれば、天皇家に近い方が水平で遠い方が縦の形式のような気がします(他の例は未確認)。第四宮に神功皇后が祀られているのではとのことです。
 配置から言えば、最初に第一から第三宮が西向きで並んでいるところへ後から第四宮が割り込んできた感じです。いつの時代かということですが、伊勢神宮のことを考えると国家神道を推し進めていく持統朝での可能性は高いと思います。持統天皇のモデルが伊勢神宮では天照大神、住吉大社では神功皇后です。

住吉大社の配置図を示します。南海住吉大社駅の案内板コピーです。左が北ですので注意。
図の下の方向が西です。第一宮ではなく、第一本宮となっています。こちらが正式名称かもしれません。


2015年1月6日火曜日

日本語の方言

 昨年、一時的に方言に興味を持ちましたが、ほったらかしになっています。
忘れてしまわないように現時点の妄想をまとめておきます。
方言の考え方ですが、a)によれば代表的には2つあり、
1)周圏型
 かって都のあった近畿地方を中心として、周辺に同心円状に分布していく型である。
2)東西対立型
 日本列島のほぼ中央にあたる長野県西側の付近に、種々の言語的な東西対立の境界線が走っている。
 地理的な要因によって生じた結果だと考えられている。とのことです。
 1)は日本が統一された状態を仮定していて、鎌倉時代以降の話のように思われます。
 2)地理的な要因としているがそうだろうか?
 仮説ですが、ある時代に日本語に劇的な変化が起こり、その結果として東西対立の境界線が起こったと考えられないかということです。
 時代的には、アイヌ語のようにもともと文字を持たない状態であったのが、万葉仮名のようなもので書き言葉が取り入れられたことが影響しているかもしれないと思います。万葉仮名的な文化的侵略があった可能性があります。ロジックがジャンプしすぎですが、考えていかねばと思っています。


a)図解、日本語の語彙、沖森卓也・木村義之・田中牧郎・陳力衛・前田直子 著、三省堂

2015年1月5日月曜日

伊勢神宮2

 伊勢神宮の内宮・下宮の位置関係について考えていましたが、もともと下宮があるところに内宮が割り込んできたような雰囲気があります。最近ネットで検索するときに学習効果か?偏向してきているような気がしますが、太陽の道というのが出てきます。北緯34度32分のラインにアマテラスに関連した遺跡が数多くあるそうです。内宮・下宮の位置関係を解決できるものではないように思いましたが、藤原京というのが出てきました。ウィキペディアによれば、690年(持統4年)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8年)に遷都した。とのことです。同じく伊勢神宮の式年遷宮が始まったのが持統天皇4年(690年)です。国家体制が整えられる中で出てきたもので、伊勢神宮が藤原京のおおよそ東にあるのは偶然ではないように思います。