2014年12月22日月曜日

伊勢神宮

 内宮のご祭神は天照大御神であり、外宮は豊受大御神である。天照大御神=持統天皇と考えれば、持統天皇の神格化が行われたことになる。持統天皇の時に内宮が作られたか、それまでの神社の形式が大きく変えられたと考えられる。持統天皇4年(690)、第1回の式年遷宮が内宮で行われたとのことである。国家神道の始まりかもしれない。


以下はメモ。
 神明造りの建物で、高床、切妻で茅葺の屋根に千木と鰹木をそなえ、棟持柱をはじめとする柱はすべて根元を地中に埋めた掘立式とされる。伊勢神宮では千木と呼ばれる角のようになったところが、屋根の破風板から突き出している。これは古代の建築で屋根の先端を作るのが難しく、先を少し伸ばして固定した名残であろうとされている。この千木の先端が垂直なのが外宮、水平が内宮で、男と女の違いを表しているとの話がある。注目して見ていて、内宮に参拝したときに板垣南御門で、破風板の組んであるところが、左前(右が外側)になっていた。外宮の参拝時には注目してなくて、想像で逆になっているかと思ったが、図面を見ると同じく左前のようで、思い過ごしだった。男女で左右が違うのは洋服らしい。和服では右前とのこと。何か意味があるのかはわからない。

 外宮の御饌殿(ミケデン) 、伊勢神宮HPの説明では、 外宮のご祭神が、御饌都神(みけつかみ=食物を司る神)の豊受大御神であることから、外宮のみにある御饌殿(みけでん)では、毎日朝夕の2度、天照大御神をはじめ、豊受大御神、各相殿神(あいどののかみ)、各別宮の神々に大御饌をたてまつります。とある。外宮の御正殿の北東に位置する。しかし内宮は東南の方向にあり、外宮内だけの位置関係かなと思う。古い時代の都が北の方に移動していくのも北の方が優位という考えがあるのかもと思った。

2014年11月24日月曜日

東西南北の名字

 石造美術の勉強会で能勢(大阪の北部)に連れて行ってもらいました。鎌倉・室町以降の石造品が多く残っているところです。本光寺のお墓で東家と喜多家がありました。何軒かあったので、昔からそこに住んでいて、東と喜多(北)がペアになっていると思います。またその後、近くの今西共同墓地に行きましたが、その地域で西のつく名字を感じました。おそらく今西も元は岩西ではなかったかとも思いますが、この地域で西のつく名字があり、方角を感じました。西方浄土の考えが残っているのかもしれません。ここで南はどうかと言うことです。お墓で南があると早とちりしましたが、南無妙法蓮華経の「南」の文字でした。能勢氏中興の祖、能勢頼次が領内の寺に日蓮宗への改宗を命じたことにより、この地域は日蓮宗に変わったしまったようです。従って南家のお墓は紛らわしいのか、名字に使うのはけしからんということなのかわかりませんが、無くなってしまったのではと思いました。このあたり調べれば良いのですが、思いつきで、裏付けはありません。

2014年10月31日金曜日

正倉院展

 人がいっぱいでした。見る価値はあると思いますが、マイペースでは見学できません。
一度展示されると、次の展示まで原則10年以上あけるとのことです。もう見ることは出来ないものもあると思いました。
 興味を持ったのが、正倉院に残された古文書でした。以下、購入した目録を見ています。
・出品番号37.東大寺開田地図 越中国射水郡「くぼた」または「こてだ」(漢字が出ません)
 現在の富山県北西部に存在した東大寺領荘園の範囲と開墾状況を記した地図。条里制を表すようにマス目に書き込まれている。天平宝字3年(759)作成年月日になっている
・出品番号38.東南院古文書
 37とペアになるもので東大寺より明治初年東大寺より皇室に献上され、正倉院宝物となった。
・出品番号40.正倉院古文書正集第十五巻
 伊賀国・志摩国・尾張国の財政関係の報告書

 これらの地域を見るとおそらく天平時代の版図の東側を想像させるものです。

・出品番号41.正倉院古文書正集第41巻
 大宝2年(702)の豊前国(福岡県)の戸籍の断簡をを集めたものである。
 戸主は塔勝岐弥(とうのすぐりきみ)で年齢34歳、正妻の若売(40歳)、妾の秦部黒売(42?)、妾の塔勝徳売(37?)と続いており全体で51人もの戸口(構成メンバー?)がいたとあります。
 塔勝というのが変な名字?といって良いのかわかりませんがなんだろうと思います。年齢差も気
になります。私のイメージしてた戸籍と違い、安田仮説のもやもや部分になります。古文書をにらんでましたが結局わかりませんでした。すらすら読めるようになりたいものです。

2014年10月23日木曜日

岡本と山本

 法隆寺に行ってきました。飛鳥様式の建築ということで、説明を聞いて、金堂・五重塔の雲斗雲肘木は今回はわかりました。個人的には、聖徳太子との関係で注目される金堂釈迦三尊像、金堂薬師仏を拝観しましたが、複数の「古代」で述べられている両方の仏の違いはわかりませんでした。光背の裏に銘文があるそうで、金堂の裏に回って見ようとしましたが、全然わかりません。素人では難しいと思いました。本に示されている資料を見ないと無理のようです。飛鳥様式ということで近くの法起寺というところに法隆寺の五重塔を模した三重塔があるそうです。行けば良かったです。法起寺が古来岡本寺と呼ばれていたとのことで、名字の岡本に関係するかと思いました。ネットで検索すると大山誠一氏の「法起寺塔露盤」の成立についてというレポートが出てきました。聖徳太子は実在しないという論文の一環のものです。少なくとも平安時代前期までは岡本寺とは呼ばれてはいないとのことでした。岡本宮は飛鳥にあり、斑鳩には無かったと述べられています。そのレポートの中で山本宮=岡本宮と考えれています。山=岡ということです。
確かに大和三山の香具山 比高62m、畝傍山 比高127m、耳成山 比高66mです(大和三山の古代、上野誠著より)。山ですが、丘(岡)といっても良いようなものです。岡本と山本は同じ意味の名前でと考えられるようです。山本は7世紀末とされる木簡にあったそうですが、山本という名前はもっと古い時代にあったと思います。

2014年10月14日火曜日

古事記と日本書紀の考え方

前の投稿からの続きです。
古事記が推古天皇までで終わり、日本書紀は持統天応までで終わるとのことです。
日本書紀の推古天皇からフィクションとして考え、推古天皇からを削除すれば、素人考えですが同じ内容になるのではと思いました。もちろん推古天皇=持統天皇です。オリジナルの古事記に対し、持統朝の正統性を日本書紀で入れ込んだため、古事記の最後が推古天皇までさかのぼってしまったように見えるのではないでしょうか。

2014年10月13日月曜日

【複数の「古代」】という本

 上記、神野志隆光(コウノシタカミツ)著を図書館で借りてきました。20007年10月20日第1刷発行となっています。
非常に参考になりました。
 私の勘違いかもしれませんが、以下メモです。
メモ
1.日本書記は持統朝から見た歴史である。
2.推古朝の歴史はフィクションである。もちろん全てがでたらめというわけではない。
 ---途中省略---
3.日本書記では聖徳太子の文字は見えない。皇太子はある。
4.万葉集はもう一つの歴史である。
 もっと早く知ってれば良かったと思います。安田仮説は、かなり遅れていました。

 なぜ万葉集があるのかということについて
この本では、古事記での「言向け」がキーワードであると述べられています。「言」(服属を誓うことば)をこちらに向かせるの意味だそうです。倭建命の話で・・・
荒(あら)ぶる神とまつろはぬ人等(ひとども)とを言向(ことむ)け和(やわ)し平(たいら)げよ。とあるそうです。
 日本の統一に向かって、軍事的に制圧するとともに言語による支配が必要であるとのことだと思います。日本語らしきものがまだ確立していない中では、当時は言葉が重要視されていた。万葉集の編者が大伴家持で、大伴氏は大いなる伴、すなわち天皇の側近ナンバーワンの家柄であり、軍事と言葉の世界のとりまとめをしていたのではと思います。日本書紀は天皇・藤原氏の歴史書であるのに対し、万葉集は大伴氏の歴史書であるような気がしてきました。

2014年10月6日月曜日

五体字類

 古い文字を読めるようになりたいと言ってたら、Iさんから五體字類を勧められました。
グーグルブックスで、最初の版が五体字類としてダウンロードできるのでタブレットとかで使用することができます。著作権が切れて、無料なのがうれしいです。しかし、ページ番号が逆さまで目的の漢字にたどりつけないようで使いにくそうです。改訂版は古本とかで安く1000円ほどで入手できそうですし、改訂3版を図書館で借りてきましたが、やはり見やすくなっています。最新の改訂4版は、貸し出し中で見ることが出来ませんでした。後ほど改善されているようですが、様子うかがいでしばらくフリーのもので頑張ってみようと思います。とにかく、スマホとかタブレットで五体字類が読めるとは思いませんでした。
暇なときに眺めていれば、なじんできて古文書が少しは読めるようになるかもしれません。

2014年10月2日木曜日

兵主大社

 前の投稿に関連してアップします。
 元の住所は野洲郡中主町大字五条とのことです。中主とは旧村名「中里」「兵主」から採った合成地名だそうです。今は野洲市五条となっています。五条という地名から条里制を思い出します。地図を見て、近くに井口というところを見つけました。井とは単純ですが縦横の2本線から条里制を表す漢字です。つまり井口は条里制の田んぼの入り口を表しています。神社が条里制の田んぼの周囲に配置されること(マイ仮説?)を考えると、兵主大社もこの頃からあった可能性大です。たまたま図書館から借りてきている「空から見た古代遺跡と条理」という本のP.68-69に西河原森ノ内遺跡が載っています。兵主大社の南側に位置し、航空写真がありますが、残念ながら兵主大社はぎりぎりはずれています。この本では7世紀中葉から10世紀前葉の重層し重複する官衙状の建物群がこの地にあると書いてあります。
このページの下に参考として
辻広志(1992)「西河原森ノ内遺跡第13次発掘調査」「平成3年度中主町埋蔵文化財発掘調査集報Ⅰ」とあります。

兵主大社庭園について
 図書館に行き、日本庭園史大系の兵主大社庭園のところを見てきました。鎌倉時代の庭園と考えられています。昭和46年3月の実測図では南側から北を見る方向については間違いのないようには思いました。ただ真北ではなく、北西の方向に感じました。
 この本の解説では、五条・六条の地名は、「近江国輿地志略」の中から五条・六条家の領地なる故となっていると引用しています。五条から条里制と思いましたが、歴史とともに変化していってるので単純にはいかないようです。井口も井ノ口となってました。井口から条里制に結びつくとは思いますが、五条・六条からは結びつかないことになります。しかし、しばらく条里制として考えてみます。

2014年9月30日火曜日

愛荘町に行ってきました。


 滋賀県、湖東三山の一つ、金剛輪寺があるところです。紅葉で有名です。まだ早かったのですが、緑の紅葉もいいものです。国宝の本堂は入母屋檜皮葺で、屋根は何か洗練された雰囲気を示しています。内部の須弥壇に弘安11年(1288)の銘がありますが、そこまではさかのぼらず南北朝の建立と考えられているそうです。蒙古襲来のおり、戦勝祈願をし、その感謝として建てられたと言っておられました。この寺の開祖は行基で、天平十三年(741)のこととされ、当時すでにこの地域は開発されていたことを示しています。
 その後、愛荘町立歴史文化博物館によりました。もらったパンフレットによれば、渡来系集団、依智秦氏(えちはたうじ)が、この湖東の愛知郡に分布したそうです。琵琶湖に近い側には条里制が地名で残っており、宇曽川右岸には県下最大級の6世紀半ばから7世紀にかけての群集墳、金剛寺野古墳群があるそうです。博物館の人の話では桂川を伝って太秦の方に、別に淀川の方から移ってきたのが依智秦氏ということでしたが、私は日本海側から近江高島を経由して移ってきた可能性もあると思います。野洲市にある兵主神社庭園の基準軸方向が北で、渡来系で祖先の方向に向かって礼拝すると聞いたことがあります。似たような 阿自岐(あじき)神社庭園がこの近くにあります。移動経路が、日本海側→近江高島市→野洲市→愛荘町(旧愛知川町)となるのではと思います。愛知つながりで、さらに移住して愛知県に進出していったというのが私の説です。
 その見学の後、偶然に畑田廃寺遺跡に行きました。説明板を以下に記します。・・・・畑田は古い瓦が見つかるところで有名です。・・昭和53年に発掘調査が行われ、白鳳時代に創建し平安時代まで繁栄した寺院の跡を確認しました。南北約18mの金堂跡、東西24m以上の細殿(掘立柱建物)、銅製品を作っていた鋳造工場跡、寺域を示す大きな溝跡などが確認されました。また、出土した遺物のなかには緑釉陶器や白磁なども見られます。また「僧寺」と墨で書かれた須恵器や「秦」と記された習書木簡が出土しました。畑田廃寺遺跡は、古代に愛知郡で大きな勢力をもっていた豪族「依智秦氏」の氏寺と考えられています。・・・・畑は秦から発音の関係で変化したものです。畑田の発音はハタケダとなっていて、ハタケと田んぼの意味にとられますが、秦さんの田んぼの意味だと思います。以前に畑と八田の発音でハタとハッタで相関あると言ってましたが、おなじようなことが考えられるかもしれません。この地域に肥田という地名がありました。肥沃な田んぼの意味にとられますが、私は畑→火+田→ヒダ→肥田ではないかと想像します。秦氏の中で連帯感があって、名字の変化になったのだと思います。

畑田廃寺遺跡で展示されていた礎石、2個の内1個。
同行の人の話では焼けたときに柱のところが残り、
円形の形状として残るらしいです。   
 
(追記)H2610.01。不正確な記述でした。兵主神社庭園は兵主大社庭園で、ネットで見たところ、鎌倉時代から平安時代の庭園ということでした。思い過ごしでした。訪れたとき、12月くらいで神職の方が琵琶湖の水に入る神事でおられないということがあり、古い時代の記録をとどめるためにこの神事が行われ、近江高島市→野洲市のように思ってしまいましたが、ウィキペディアで見れば、穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)から欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え・・とあり、琵琶湖の湖岸沿いを伝ってやってきたようです。八ケ崎神事というようです。近江高島市からダイレクトに野洲市にやってきたとは断定できません。妄想的な話でした。

2014年9月20日土曜日

山梨県

東日本の名字に小林が多いことで、林の移動により子孫の意味で[小]の字が付いたといっていました。
 名字:林と小林
つまり奈良・平安時代に西から移住した人によってその地域が形成されていったということです。頼朝の挙兵に呼応して甲斐源氏が、富士川の合戦に参加したそうです。その中に、安田義定という人が活躍したことを知りました。安田という名字の出所ですが林と同じく移住によるものかもしれませんが、条里制の田んぼから発生したものかもしれません。甲府市の城下町にも条里制の痕跡が残っているといっている人もおられるようです(その文献は未確認)。また武田勝頼を滅ぼしたのが小山田氏で、山田の子孫が小山だということが、小山田は田が省略されずに残っていて明白です。山田は岐阜県に多い名前で、小山は長野県に多く、岐阜県から長野県を通って山梨県へ移動したと感じます。西からの移住する人によって山梨県が発展してきたのだと思います。
 名字:小山のもとの名字

甲斐の意味もいろんな説がありますが、境界の界から出てきたように思います。都から見てテリトリーの限界の地域、奈良時代はフロンティアの地であったと思います。鎌倉時代になり、落ち着いてきた段階で夢窓国師などが移住して禅宗などの布教に取り組んでいったのだろうと思います。今回、関西から山梨県に行くときは静岡県から入りましたが、昔は長野県から入っていったのであろうと思います。岐阜県と山梨県は長野県を通して強いつながりがあったのではと想像されます。

意味があるのかわかりませんが、山梨県の方言で〈そうですか〉というのを〈ほうけ〉というらしいのですが、何か奈良・平安時代の痕跡を感じました。

「山梨県の歴史散歩」山川出版社の安田関連のメモ書き
放光寺(法光寺)・・安田氏菩提寺
安田氏五輪塔・・・雲光寺の入り口左側
安田義定廟所・・・普門寺付近

2014年8月30日土曜日

夏休み

 時間があるので、いろいろ出来ると思ってましたが、成果はありませんでした。すぐ忘れてしまうので今の考えをメモ書きとして書いておきたいと思います。
 以前に、アマテラスのモデルは持統天皇ではないかということで投稿してました。つまり日本書紀は持統天皇を称賛するためのものであるということです。とすると聖徳太子・推古天皇も不比等・持統天皇を投影しているという説も本当かもしれないと思えます。中国の史料では遣隋使を送ったとき日本は男子王であったとのことです(出所は未確認です)。つじつまがあってない可能性はあります。聖徳太子と・推古天皇をなくしてしまえば、あいたところがどうなるか。根拠は薄いですが、景行天皇・ヤマトタケルが入るかもしれないと思います。天皇名がタラシ系列であるというだけの理由ですが。コピペで痕跡が残ったのではという推測です。ヤマトタケルの話で地名がいろいろと付けられたということがあります。地名というものはローカルであれば、山とか川ぐらいで十分だと思いますが、中央集権化が進むと各地を識別する必要が出てきます。その時に中央の意向に沿った地名が考えられるはずです。日本の統一化が進む中で、感覚的にはヤマトタケルは7世紀前半の人と考えて、このころから地名が整備されていったのではと、今は想像しています。地名から古い時代を推測することはむつかしい気がしてきました。

2014年7月27日日曜日

オニバス

昔に録画した兵庫県播磨平野のため池という番組を見ていたら
オニバスが出てきました。この地域は瀬戸内地方で雨が少ないためため池が多く作られました。漢字で鬼蓮で、植物全体に大きなトゲが生えており、つののイメージでそこから鬼の名がついたようです。鬼というものが認識されてから名前がつけられたので、この地域の水田とか、ため池とかも奈良時代か平安時代初めとか以前のものかもしれません。と思ったのですが、古名はミズフブキで鬼とは関係ないようです。オニバスは最近になってから付けられた名前かもしれません。

2014年7月21日月曜日

方言

方言についての分布図を図書館で見つけました。高価な本ですが、詳しく調べられています。インターネットでも見ることができました。ちらり見ですが、その中に「買う」の過去形の「コータ」と「カッタ」の違いの分布がありました。東日本と西日本とで分かれています。奈良時代以前の名字の分布と似たような感じを受けました。この時に貨幣経済があったのかはわかりませんが、影響を引きずってなんらかの違いが出てきたのかもしれないと思います。

国立国語研究所、方言文法全国地図PDF版
第2集第105図「買う」の過去形

http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-105.pdf

また
『日本言語地図』 第1集29
アカイを”明るい”の意味で使うか という分布図があります。
使うというのが西日本側(滋賀県・奈良県以西)、使わないというのが東日本側です。
奈良時代以前に明るいの意味があったのが、その後、東日本へ伝わっていく中で、なくなってしまったことに対応しているのかもしれません。奈良時代よりも前の時代から日本語が成立していく過程なのかとも想像されます。

http://www.ninjal.ac.jp/s_data/drep/laj_map/LAJ_028.pdf

方言文法全国地図PDF版
第93図、飽きたの分布
あきた→あいたの音便をとらえているようにも思います。分布の境界が中部地方にあります。奈良時代から平安時代初期の状況を示しているかもしれません。

http://www2.ninjal.ac.jp/hogen/dp/gaj-pdf/gaj-map-legend/vol2/GAJ2-93.pdf

言葉によって方言の分布のパターンが違いますが、それが古い時代の日本が統一される前の状態の痕跡と考えられるのではと思いますが、単なる思い込みなのか、都合の良いデータだけを見ているので今のところ何とも言えません。

リンクがうまく出来ていません。上記のリンク先へたどっていってください。文章だけでは何を言ってるのかわかりにくいですが、方言が古い日本の状態を示し、その痕跡が今に残っているのではと思っています。

2014年7月12日土曜日

なまはげ

この前の鶴林寺のことで思いつきました。秋田県の方に安田の名字が多いことがあります。条里制が秋田県の方に伝わっていったのであろうと想像できますが、この時に同時に鬼払いの風習が伝わっていったのではないかと思います。そうであれば、奈良時代か平安時代の初め、時の朝廷が東北侵略し、拠点となる地域から新田開発を行っていったことになります。なまはげと条里制が結びつけば良いのですが。


追記:H26.07.13
図書館でナマハゲの本を見てきました。起源についていろいろあるようで言いたい放題のような感じを受けました。しかし鬼払いの儀式とかについて書いてるものはぱっと見ではありませんでした。時代的には奈良時代では早すぎ、平安時代かもしれないですが、朝廷勢力が現地の人を威圧し、服従させようとした儀式で、単一の地域でなく広い範囲で行われ、それが現在に残っていると考えたいです。秋田県の条里制についてはあまり検出されていないようでしかも時代がもっと下がるようです。これもぱっと見で確実なものではありません。ちょこちょこと調べてわかる問題ではないです。

2014年7月10日木曜日

鶴林寺と安田

この前の日曜日、鶴林寺を訪れました。本当とは思えませんが、聖徳太子創建の古刹です。本堂・太子堂などが国宝です。本堂手前に菩提樹と沙羅双樹が配置されています。沙羅双樹の方だったと思いますが、その木が石柱で囲まれています。そこに、その石を寄進された人の名前が彫られています。その参詣路側に「安田  何某」と多数ありました。安田というのは地域の名前で、その地区の人がまとまって寄進したということでしょう。地図を見ると鶴林寺の近くに尾上安田というところがあります。おそらくこの地域の人が関係しているのだろうと想像します。とにかく安田という地域はおそらく古い時代の名前で、法華口というところも近くで見かけました。法華天台宗からきた地名と思われますが、奈良時代からある地域の雰囲気を残しています。鶴林寺の入り口手間に用水路のようなものがありましたが、条里制の痕跡であろうかとも思わなくもありません。安田という地名から条里制の存在をうかがわせます。7世紀後半からいつの時代であろうか、鶴林寺付近の古い地図があれば、はっきりとするかもしれませんが。残念ながら奈良時代以前を示す証拠はわかりません。しかし、それ以降の古い時代である可能性は十分あります。鶴林寺と安田で検索すると鶴林寺の正月の行事に修正会という行事があることがわかりました。鬼払いの前に安田吉道?という謡曲が奉納され、追儺(ついな)という鬼払いの儀式が行われるそうです。由緒では平安時代後期の村上天皇の御代、ともひら親王の後胤につながるそうです。時代的に詳しくしりたいと思います。鶴林寺の宝物殿で、鶴林寺と近くの一乗寺の寺に関する10哲?みたいな比較があり8人同じで、残りの1人が聖徳太子と弘法大師の違いでした。略してタイシさんというときにごっちゃになってるのかなとも思います。これはおいといて、条里制により田が整備され、その後に寺域が出来てきた可能性が高く(寺がありその周りに条里制の田が出来た可能性は小さいように思います)、いろいろ思うだけで、確証は無いのですが、加古川の西側の地域で条里制について何かしらありそうです。

2014年6月1日日曜日

聖徳太子

聖徳太子の時代は、本当はヤマトタケルの時代で、ヤマトタケルの古い時代に移したので
あいたところへ聖徳太子を持ってきたのではと思います。
ここで聖徳太子のモデルは誰かということですが、単純に考えればキリストということになります。
厩戸皇子ということからキリストの生誕との連想から誰でも考えることだと思います。
奈良時代においては中国だけでなくペルシャなどからの宝物が伝わって来ています(正倉院のものなど)。これらとともにキリスト教が伝えられたかどうかと言うことですが、今から100年ぐらい前に論じている人がいたようです。
ネットで、佐伯好郎博士と「日ユ同祖」論にあります。一部抜粋しますがキリスト教の一派であるネストリウス派は、635年(貞観9年)に入唐し、当時の皇帝であった太宗の厚遇を受け、翌636年に波斯寺(745年に大秦寺と改称)を建立したとされている。すなわち、中国にネストリウス派のキリスト教が伝来したのは7世紀のことである。・・・大秦寺の名前が京都の太秦に対応しており、渡来人の秦氏が関係しているとのことですが、私はそうかもしれないと思います。聖徳太子が出てくる日本書記の編纂時期には十分間に合います。秦氏が4世紀に渡来したのでつじつまがあわないとのことが上記で述べられていますが、7世紀に渡来したとすれば整合性はあるので、切り捨られてしまう仮説ではないように思います。
自分の記憶力がおぼつかない感じになってきましたので、これはメモ書きです。


追記:H260616
 秦氏が7世紀に渡来したというのはちょっとと思うようになりました。秦氏が1回でなく数回に分かれて渡来したか、後から来た人たちが秦氏というグループに加わったか可能性はあるので断定はできないと思います。

2014年5月28日水曜日

山上の分布

山上憶良との関係で何かあるかと思いましたが、わかりませんでした。
山上と相関の高い名字に
西谷、高谷、喜多、小西、小坂、泉、新谷、吉崎、北山、今川、秋田、北、大西、橘、岡山、楠、・・・があります。
相関係数は0.60、0.59、0.57、0.53、0.53、0.52、0.52、0.51、0.50、0.49、0.49、0.47、0.46、0.46、0.46、0.46
微妙ですが、西谷、高谷など谷と相関が高いようです。
後、一文字の名字とか方角も相関が高いように思われます。
しかし山上憶良との関係はわかりません。無駄とは思いますが、アップします。

2014年5月24日土曜日

アマテラス=持統天皇?

安田仮説では安田とアマテラスの関係を言ってます。
安田が7世紀後半に発生した名字であるとも言ってます。
するとアマテラスが7世紀後半の人になってしまいます。
アマテラスをこの時代に存在させるために
持統天皇と考えるればすっきりとします。

2014年5月17日土曜日

尾張の名前

尾張の国の「オワリ」が終わりという発音に通じることがウィキペディアにありました。
奈良時代以前の東の限界の領域になってたかもしれません。

どこかで出てかかもわかりませんが、忘れないようにメモ書きです。

参考に以前の図にリンクします。

2014年5月12日月曜日

織田信長の花押

gacco、日本中世の自由と平等のweek4で信長の花押が紹介されていました。
⑤でがらっと雰囲気が変わりますが、麒麟の麟の字をモチーフにしたとのことです。
(多分、佐藤進一著、花押を読むより)
④、⑤で右が信、左が長のように見えたのでなぞってみました。
元のデータは上記から持ってきました。それにピンクの線を入れました。
著作権などで問題あれば削除します。


2014年5月5日月曜日

万葉集、防人歌(追加)

図書館から万葉集の本を借りてきて見ています。巻14と巻20に防人歌があるようです。
東国農民の生の声だと書いてあります。防人たちが歌を作るならわしは以前からあったらしいとも書かれています。
各地から難波に連れてこられた防人は船で筑紫に向かう、その時に集められ大伴家持が受取り、選択したものが万葉集に採用されているとのことです。この本にすべての歌が載せられているのではないので、違うかもしれませんが、農民というのは思い込みで、捕虜になった教養の高いトップクラスの人ではないかという気がしてきました。懲罰的な意味があったかもしれません。東国支配が進行中であったと考えるとすっきりとします。本は昭和62年発行で古いので現在では考え方が変わっているかもしれません。万葉集の本をちらちらと見たのは初めてです。全体を理解していないので、思いつきのレベルですが、物忘れの傾向にあるのでメモ書きとしてアップします。

2014年5月3日土曜日

防人の分布

ウィキペディアの駿河国正税帳による分布図を作ってみました。
現在とは違うので、人数を分配しました。

伊豆¥静岡県                        22
甲斐¥山梨県                           39
相模¥神奈川県                        230
安房¥千葉県                           23
上総¥千葉県                          223
下総¥千葉県、茨城県、埼玉県、東京都  270
常陸¥茨城県                          265

静岡県  22  人
山梨県  39  人
神奈川県230  人
千葉県 313.5人    23+223+270/4
茨城県 332.5人    265+270/4
埼玉県  67.5人    270/4
東京都  67.5人

2014年5月1日木曜日

万葉集、防人歌

テレビ番組、100分で名著の4回目で防人が取り上げられていました。疑問に思ったことは、
なぜ東国の人たちがわざわざ九州の防衛のためにかり出されたかということです。
想像はつきましたが、詳しく知りたいと思い、図書館から
  日本の文学 古典編4 万葉集三 ほるぷ出版
を借りてきました。
 本の中に詳しく防人について書かれていましたが、同様のことがWikipedeaにもありました。
後の方にコピペしています。

当時のヤマトのグループは、東国への進出を図っていた時期で、捕虜的な人も数多くいたと思います。
征服した地域の人を戦いの最前線に置き、自分たちの損害を少なくすることはよくあることです。そのために関東から九州へ強制的に配置されたと思いました。万葉集に取り上げられたのは謎ですが、とにかくヤマトのグループの東限は三関にあるということは整合性があるように思います。

参考_三関(2)


防人はWikipedeaによれば、
日本の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。もとは岬守(みさきまもり)と呼ばれたが、これに唐の制度である「防人」の漢字をあてた。
とあります。

また防人の規模については
防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。738年(天平十年)の「駿河国正税帳[4]」によると、この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、その内訳は伊豆国22人、甲斐国39人[5]、相模国230人、安房国23人、上総国223人、下総国270人、常陸国265人であった。他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。[6] この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、防人は3班に分かれて帰郷しており、中班953人、後班124人が記録に残っている。前班の人数は残っていないが、費やした食糧より1000人程度が算出され、合計すると2077人となる。
とありました。

2014年4月23日水曜日

佐藤の分布

gaccoサイトで「日本中世の自由と平等」というオンラインの講義があります。そこで
本郷先生が、奥州藤原氏が国家であるようなことをいっておられました。
佐藤という名字は奥州藤原氏の影響を受けた名字であると思っていましたが、
国家であれば当然戸籍のようなものがあり、奥州藤原氏も独自の戸籍を作っていたはずで、
範囲が限定された分布になっていても当然だと思います。
円の大きいところが奥州藤原氏のテリトリーではと思われます。

2014年4月22日火曜日

万葉集:貧窮問答歌

テレビの「100分de名著」の万葉集・第3回を見ていたら、山上憶良の貧窮問答歌の話が出てきました。
日々の生活で苦しんでいる人を描写しているものです。文学史的にはあまり例がないようです。
なぜ憶良が貧しい人の目線に立てたかということです。
憶良が百済滅亡の時に日本に逃れてきた渡来人と考えるとつじつまがあいます。
彼は有能で官吏として抜擢されていたわけですが、少数であり、同じ難民でもそうではない人は苦しい状態に追いやられたと思います。日本に逃れてきた同胞の意識があり、何かしらの記録の形で仲間の悲惨な事実を残さなければいけないという強い思いで貧窮問答歌が作られたのではとふっと思いました。そこで図書館に出かけ、万葉集の本を見てきました。ぱらぱらと見ただけですが、渡来人というのは勘違いかもしれないという気がしてきました。番組では当時の社会状況などについて詳しくは触れられていませんでした。番組を見ただけで私が感じたことですが、ウィキペディアで山上憶良を見ると万葉学者の中西進氏が渡来人説を述べておられるようです。時間があればこのあたり詳しく知りたいと思っています。ほかに万葉集の本で古代の日本語の発音のことがありましたが、ぱっと見て文字だけではわかるものではないと感じました。

2014年4月17日木曜日

安田の分布

秋田県に安田の分布が多いですが、以前からなぜだかわかりませんでした。
次の本を見ていて、可能性があると思いました。

日本の中世1:中世のかたち 石井進 著 からの抜き書きです。

日本書紀に斉明天皇の四年(658)から六年にかけて、いわゆる阿部比羅夫の「蝦夷(えみし)」、「粛慎(みしはせ)」征討のの記事をのせる。畿内勢力が日本海ぞいに北上、齶田(あきた)(今の秋田)・渟代(ぬしろ)(いまの能代)・津軽地方の蝦夷を服属させ、さらにその北方の「粛慎」を攻撃したという、早い時期の伝承である。・・・

これは白村江の戦い(663)の前なので、時間的には早く、このときに安田が東北に発生したとはいえそうにありません。しかし、日本海側の海上交通が発達していて、その後に秋田県の方に安田が移住したことで、多いことの理由になるかもしれません。

2014年4月1日火曜日

安田仮説 改訂版 出ました。

12月からブログの更新が止まっていました。体調が悪くなったためです。その後回復し、改訂版を出そうということで3月はがんばっていました。昨日、グーグルブックスにアップロードし、今朝見たら公開されていました。手早く作業していただいてありがたく思っています。しかし最初の安田仮説も残しています。購入された方はおられないようなので内心良かったと思ってます。間違わないようにお願いします。改訂版では、私のワープロの技術もだいぶ進化しましたので、お粗末さはかなり軽減されたと思います。40ページで必要な部分の図だけにしています。はじめの版を残したのは資料に意味があるのではと思い残しているだけです。改訂版の方を間違わずに読んでいただくようにお願いします。改訂版のEPUB形式は容量の制約でこれ以上の図を含めるのが難しいようなので、現状のスタイルになっています。資料集は売れ行きがよければ作成しようと考えています。4月からまた貧乏暇なし状態が考えられるので、8月ぐらいに作業できるでしょう。改訂版の値段は100円とさせていただきました。ぼったくりの批判は受けますが、「金返せと」かのコメントとかいただいても返金はしません。お金をどぶに捨てても良いと思われる方は購入の方よろしくお願いします。
注意ですが、安田仮説 改訂版では残念ながらマイナーなので検索されないと思います。
Google Play の中で 安田仮説 改訂版 を検索してください。それと表紙に改訂版の文字があるのを確認してください(下の図参照)。


安田仮説 改訂版