2017年11月19日日曜日

動物名が含まれた人名

NHK,日本人のお名前に感化されてるかもしれません。
上野三碑で、「多胡碑」に人名と思われる「羊」がありましたが、なんだろうということです。
 今年の第六九回正倉院展で動物名のついた人物が多くある戸籍が展示されていました。図録で見るとNo.40続々修正倉院古文書 第三十五帙第五巻
下総国葛飾郡大島郷戸籍《しもうさのくにかつしかぐんおおしまごうこせき》ほか
 これには、刀良《とら》、刀良売《とらめ》、乎刀良《おとら》、竜麻呂《たつまろ》、馬手《うまて》、比都自《ひつじ》、佐留《さる》、鳥、犬売、猪、子猪などが見え、図版は養老五年(七四五年)、今の東京都葛飾区に比定されています。と書かれています。
 サルということで、昔に読んだ梅原猛著『水底の歌-柿本人麻呂論』を思い出しました。名誉剥奪ということで、名前を人からサルに変えさせられたということでした。ウィキペディアで、柿本人麻呂を見ると、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。とのことでした。
 藤原宇合《うまかい》は、馬を飼うということで人間の立場の名前で、しかも遣唐使の時に変えたので問題はないと思います。高橋虫麻呂の方は知らない人だったので、図書館で
「旅に棲む、高橋虫麻呂論、中西進著、角川書店」を借りてきました。虫麻呂と宇合は万葉集の中で密接な関係があるようでした。本文をほとんど読んでませんが、終わりにの後ろに、高橋虫麻呂について書いてあります。虫麻呂については史書には登場せず、良くわからないそうです。虫麻呂は変な名前だと言うことで調べられていて、虫麻呂は万葉集で五人登場して、安倍虫麻呂、高橋虫麻呂以外は東国出身者は防人の名前で三名だそうです。東国に多い名前かと思いましたが、古代の文献調査では、出身地のわかっている虫麻呂三六人中、二十三人が畿内で、東国関係者は九名とのことです。虫のつく名前が東国に限らないということになります。途中理解できていませんが、最終的に高橋の姓から虫麻呂は、東国出身と言うことのようです。蔑称かどうかはわかりませんでした。
 私の手がかりとなるのは、大化の改新での蘇我氏があります。日本書紀では蘇我氏は悪者ですので、フィクションと考えて、自由に名前をつけられたとすれば、馬子と入鹿で、動物の名前です。また蝦夷も人間ですが蛮族的なイメージで、全体として蔑称としてつけられたと考えられます。動物の名などは、トップエリートには使われなかったように思われ、当時の人も動物名に高貴なイメージを持たなかったと思います。ウィキペディアに逆らうようですが、蔑称のような気がします。


 上野三碑については、ユーチューブにありました。
良くわかっていなかったのですが、ありがたいことです。
上野三碑
https://youtu.be/S2bLs2RDW5U
上野三碑「多胡碑」
https://youtu.be/fYoLn0poCtg

2017年11月18日土曜日

甲府盆地の方言「ん」

上野三碑がある理由を考えていて
私は、律令制が西日本から始まったと考えています。しかし群馬県高崎市にこの時代の碑文が残されていることのつじつま合わせを考えないといけなくなりました。日本の方言は、大雑把には東西対立ということが言われています。動詞の否定形に現れていて、、言わないと言わん(いわへん)、書かないと書かん(書けへん)という使い方に差があります。
 私はこれは、西日本に律令制が取り入れられた時に起こったと考えています。律令制は短期間に崩壊したので、この分布が現在まで残ったということです。これは、名字が律令制により出来て、律令制の崩壊と共に西日本特有の名字として残っていることと対応しているということです。
 方言の本を図書館から借りてきて、パラパラとみて、上野三碑と甲府盆地の「ん」が結びつきそうな気がしてきました。
ことばの地理学ーー方言はなぜそこにあるのか?
 大西拓一郎著、株式会社 大修館書店
この本の第一章 川をのぼった「言わん」の「ん」、この中でことばの東西対立について述べられています。ここでの問題点として、甲府盆地に否定の「ん」が孤立してあることが邪魔になるとのことです。東西対立がうまく説明出来ないと言うことです。
 考え方としては、もともと東日本の分布があるところへ、後から西日本の「ん」がもたらされたということであるとして、富士川からの水運で、内陸部ではできない塩などの生活必需品が西日本の人を通じて言葉も伝わったということである。この時期は富士川水運の開設時期であれば、四〇〇年前になるとのことである。とあります。
 私はただの思い込みですが、条里制の田んぼの開発には盆地の地形が有利に働くように思われ(奈良に都が出来た遠因に盆地であって、排水処理に有利な地域であり、農地開発から多数の人を養うまでに農業生産が出来たのではと思っています)、ある程度甲府盆地に早い時期に西日本からすぐれた土木技術を持った人が入ったと思われます。しかもある程度の人数でないと、その土地の人の言葉の影響を受けてしまうので、集団移住と想像されます。富士川を通って、甲府盆地に定着した可能性はあります。
 これは山梨県の話ですが、この付近に小林の名字が多く、また小林は「沢」のつく名字と相関があります。林は近畿地方に多く、林が移住して小林になったのではないかと考えています。また沢がなぜ多いのかということも、戸籍が整えられ、同時期にこの地に「沢」のつく名字が生まれたのではと妄想されます。名字については長野県の方にも分布が広がり、断定出来にくいところがありますので違うかもしれません。現時点での思いつきです。その後、この律令制の成果を見て、上野・下野の方にも拡散し、上野三碑が出来たのではということです。
 少し時代が下がりますが、称徳天皇の崩御により、弓削道鏡が下野国に左遷されます。この地域が七七〇年頃の版図の境の地域であったと当時の政権に認識されていたと思われます。
 パズルのピースがはまってきた感じがします。この妄想から逃れられません。
 あと、ついでですが、甲斐国の名です。ウィキペディアに説明がありました。そうだろうと思います。
 近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]。
^ 平川南「古代日本における交通と甲斐国」『古代の交易と道 山梨県立博物館 調査・研究報告2』(2008年、山梨県立博物館)、p.12

山梨県
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html
林と小林
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2013/09/blog-post_5.html


2017年11月17日金曜日

奈良時代

 奈良時代とか平安時代とか今まで意識して来なかったのですが、奈良時代というのは大変な時代ではなかったかという気がしてきました。七一〇年から七九四年まで短期間です。律令制がうまくいかない中での、彷徨。問題続発の中で解決のために平安京遷都が行われたと思います。その前の長岡京に遷都するのも主導者の藤原種継が暗殺されています。遷都しなければ、大和の政権は崩壊していたかもしれません。このような混乱した中にあって、天平文化が花開いたといわれるのがすごくギャップがあります。正倉院展で以前展示された聖武天皇の仕込杖など印象に残っています。クーデター的なことを常に意識していたかのような遺品に驚いたことを思い出します。文化的にすぐれていたものが残っているということと、政治的には不安定であること、これがどうつながるのかということが、今後考えていかないといけないことであると思います。
 万葉集にも大仏開眼の話はないように思われます。無視することで、大仏反対の無言の抵抗をしているような気もします。山水画で雪を表すのに墨で周りを示して余白に雪を感じさせるように、記述がないと言うことも意味があるかもしれないです。
 家持略年譜を見ると、大仏開眼供養の天平勝宝四年(七五二年)、二月に大伴御行の歌が出てきます。四月開眼供養がありましたが、十一月の橘諸兄宅の宴歌まで作歌がないそうです。略年譜の一般事項の欄に開眼供養の終了後に天皇(孝謙天皇のこと)は藤原仲麻呂邸に還御する。とあります。何かあったように勘ぐります。
 オリンピックのような祭典が行われたとして、周辺で大規模な反対デモがあったことが記録から抹殺され、後の人が平和な時代だったと錯覚するような可能性があるのではということです。
 このあたり思いつきです。図書館に返却しないといけないので、また読むことあるかもしれません。メモっておきます。
家持略年譜は、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著
全体に読まないといけないと思った本は
万葉集をどう読むか
 ーー歌の「発見」と漢字世界  神野志隆光著、東京大学出版会

昔の記事の引用です。
東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html

2017年11月16日木曜日

天智天皇と天武天皇

 淡海三船が出てきたので、また天皇の名前を考えました。以前に「元」の字の天皇を考えましたが、今回、この二人になぜ、天がつくのだろうということです。天照大神も最初に天がつきます。奈良時代は、天武系から天智系へ、変わりつつある時代で、皇位継承で政変が多発しています。淡海三船はこの対立が無くなることを望んでいたのではないかという気がしてきました。天皇のスタートが実質的に、この二人にあるとして、両者に天の字を用い、次の持統天皇に合体するようになってほしいと考えたのかもしれません。当時においては、天武系が嫌われていて、多数派の支持を得た藤原氏が、手段を選ばぬ方法をとって天武系の追い落としをしても認められたのではないかと思われます。前から天智天皇と天武天皇は兄弟ではないと思っていて、それが何かしらに影響しないのでどうでも良いという考えでしたが、それではだめなのかもしれないと思います。唐向けに書かれた日本書紀では神武天皇から始まりますが、天智天皇と天武天皇が兄弟でないとすると、男子王の継続を重視する男尊女卑的な中国では認めてもらえない可能性があります。天武天皇が新王朝の祖となり、神武天皇以来の歴史を作成したのが無意味になることを恐れ、そのために、不自然ですが、兄弟としたということではないでしょうか。淡海三船は天智派と天武派の融和を考え、大伴氏に近づき、天智派の反発を受ける結果になって、朝廷誹謗事件とされたのではという憶測です。単なる思いつきです。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html

系図については、東大寺
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html


2017年11月15日水曜日

一族を諭《さと》す歌、万葉集

引用が長くて、言いたいことは最後の方の三行ぐらいです。
大伴家持の最後の長歌といわれます。万葉集巻二十・四四六五
この歌を作った事情は左注に
  右、淡海三船《あふみのまひと》の讒言《ざんげん》に縁《よ》りて、出雲守大伴古慈斐宿袮、任を解かる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
とある。淡海三船という者の讒言によって一族の長老、出雲守大伴古慈斐が解任されるという事件があったからだという。一族を諭す歌は短歌ではできない。長歌ならではの役目である。作ったのは天平勝宝八歳(七百五十六)六月十七日とある。この事件は正史である「続日本紀」によれば、その天平勝宝八歳五月十日の条に、
 出雲国守従四位上大伴宿袮古慈斐・内堅《ないじゅ》 淡海真人三船、朝廷を誹謗して、人臣の礼無きに座《つみ》せられて、左右衛士府に禁せらる。
とある。そして三日後に二人そろって許されたという。天皇は孝謙女帝で、この事件の八日前、五月二日に聖武太上天皇が崩御されて、文武百官をはじめ国中が喪に服しているさ中に、この事件があったのである。
以上、
大伴家持、小野寛著、コレクション日本歌人選042、笠間書院より引用。

 この事件に関して」、王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にくわしく述べられている。
 この事件の前に大伴家持の理解者であった橘諸兄が左大臣を辞任している(七五六年二月)。この原因が、前年一一月の酒宴で、佐味宮守に、「大臣飲酒の庭にして言辞礼無し、稍《やや》反状あり云々《うんぬん》」と、密告されている。宮守は翌々年七月に従八位上からいっきょに従五位下に昇進しているとのことで、密告の功だとしている。天平勝宝八歳、諸兄辞任の年、五月聖武上皇崩御、遺詔として皇太子に天武天皇の皇孫、道祖《ふなど》王が立てられた。その時に事件が起こったことになる。
 続日本紀では淡海三船・大伴古慈斐共に悪者ですが、大伴家持の認識では、天智天応系の不満分子の淡海三船に引き込まれてしまったということで、大伴一族が滅ぼされないよう、今後の軽挙妄動を慎み、自重せよとのメッセージのようです。
 長々とした文章ですみません。注目すべきは、淡海三船が体制批判的な立場の人間であると思われていたことです。一族を諭す歌はこれを示しているように思われました。
天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_17.html
推古天皇の名前
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2015/03/blog-post_15.html

2017年11月14日火曜日

山名村碑文(山ノ上碑文)

万葉集づいています。図書館から
万葉集をどう読むかー「歌の発見」と漢字世界、高野志隆光著、東京大学出版会
を借りてきました。万葉集をテキストとして読むということですが、良くわかっていません。最後まで読めるかわかりませんが、最初の所に山名村碑文が取り上げられています。辛巳歳に長利の僧が母の黒売刀自のために文を記し定めたというもので、そばにある円墳の墓誌と考えられている。 とのことで、場所は群馬県高崎市で、辛巳歳が六百八十一年と考えられています。この年は天武天皇十年となるそうです。私の東国のイメージと異なるのでショックでした。辛巳《かのとみ、しんし》は、ウィキペディアで見れば、六百二十一年、六百八十一年、七百四十一年、八百一年付近で、私の願望としては七百四十一年になってほしいと思いますが、事実を受け入れないといけないようです。
 近畿地方で、律令制が始まった時期にすでに東国に文字の文化や僧や寺ということで仏教が広まっていく時代であったということです。
 この碑文は、上野三碑《こうずけさんぴ》の一つで、他の二つはこれよりも時代が後のようです。多胡碑は和銅四年(七百十一年)のもので、多胡郡を建郡したときのもののようで、律令制のグループがこの地に入ったということだろうと思います。もう一つの金井沢碑は、神亀三年(七百二十六年)に仏教に入信した内容らしいので、律令制が行き詰まってきて、その解決策の仏教による鎮護国家思想と対応していると思えます。律令制が全国的に広がるのに、時間がかかるのであるものの、瞬時に伝わった地域があったということだろうと解釈しておきます。変化が急なので、緻密に年代を考えないといけないように思われます。
https://kotobank.jp/word/上野三碑-62405

追記(H39.11.16)
高崎市の文化財ページより
山上碑及び古墳
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600132/
金井沢碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600231/
多胡碑
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121600286/

2017年11月12日日曜日

大伴家持経歴

大伴家持の万葉集の終わりごろの時代が不明だったので、
王朝の歌人2、大伴家持、橋本達雄著、集英社にある年表を見ました。
 ・天平勝宝七年(七百五十五年)、兵部少輔として防人検閲、歌を記録
 ・天平勝宝八年(七百五十六年)大伴古慈斐《おおとものこしび》の事件で一族を諭す歌
 ・天平宝字元年(七百五十七年)橘奈良麻呂の乱が起こり、関連したとして大伴氏一族は処罰されます。家持は無関係とのことでしたが、翌年、因幡守に左遷されます。
 ・天平宝字三年(七百五十九年)正月に万葉集最後の歌を詠むことになります。
 ・天平宝字六年(七百六十二年)には、信部大輔に任じられ、帰京
 ・天平宝字八年(七百六十四年)正月に政争で、薩摩守へ左遷される
 ・宝亀元年(七百七十年)民部少輔となり帰京、光仁天皇の時代になる
 ・天応元年(七百八十一年)は、従三位になる。母の喪のため一時解任
 ・天応二年(七百八十二年)正月、氷上川継の乱への関与を疑われ、解官されますが、四月には罪を赦され、復任 
 ・翌延暦二年には中納言に昇進
 ・延暦四年(七百八十五年)八月薨去。
 ・同年九月、藤原種継暗殺事件が起こり、家持が首謀者とされ、官籍から除名
 ・延暦二十五年(八百六年)勅により本位に復す。このころから万葉集も世に出たか、とあります。
浮き沈みの大きい人生で、後半生は万葉集どころではなかったかもしれません。この時代女性の天皇が多く、律令制度もうまく働かず、政争も頻発していたように思えます。「大伴」の意味は、大家《おおやけ》(皇室)に直属するという意味が含まれているらしくて、格別に有力な伴造《とものみやつこ》氏族とのことである(最初に示した本より)とのことで、神話の時代はわかりませんが、天武天皇の時代には壬申の乱で大伴氏が活躍した名門です。一方、藤原氏は、日本書紀の大化の改新で、天智天皇を助けた中臣鎌足からの名門です。この時代、どういうわけか、天武系の天皇から天智系の天皇に変わっていくのに対応して、大伴氏などが排除されていくように思えます。


以前に書いていたもの、今回思い出しました。同じようなことを何度も言ってます。
http://yasudakasetu.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html